第二章 ある法則

 11年というのは、長いようで短くもある。昨日生まれた子供が、ギムナジウム(ヨーロッパの中等教育機関。日本の中高一貫校に相当)に通うようになるぐらいの年月だ。
 子供ならばその年月は、気が遠くなるほど長いだろう。ただ、大人になると時間の経過を早く感じる。
 三十代は、自分で思っているよりもはるかに、早く過ぎてしまう。
 気持ちの上では、ほんの数週間ほどにしか感じない。子供のころにはあんなに一日が長かったものを……。
 気がつけば僕は、四十代になっていた。
 あいかわらず僕は、小さな町の神父と教師をしている。
 毎日は、平穏で何事もなく過ぎていく。
 だから、もうずっと以前に聞いた僕の守護天使たちの予言のことなど、すっかり忘れていた。
 あいかわらず、僕の両肩には小さなお爺さんみたいな天使たちがいる。
 でも、昔と違って彼らは、すっかり静かになってしまった。
 なぜだろう。
 僕が、大人になってしまったからだろうか。

 十年前の僕と、今の僕は、明らかに違う。
 髪は、あのころより少し長くなった。ついでに髭も伸ばしてみた。童顔見られるのがイヤでやってみたら、自分でもちょっと気に入ってしまったのだ。
 かつては“神父で食べている芸術家”を自称していた僕だが、今は、ほとんど自分の愉しみのためだけに、写真を撮ったり、絵を描いたりしている。
 誰かのために……ではない。
 そう。
 誰かのためではない絵を僕は、描いている。






 音楽学校コンセルヴァトアールの敷地の中にある小さな教会では、毎週日曜には“主日のミサ”が行われている。
 他に司祭はいたのだが、ちょっとした経緯があって、ここの学校の教師であった僕が、日曜ごとのミサを受け持つことになった。

「聖書は理屈ではありません。あなたの人生を豊かにしてくれるものです。それは信者であろうとなかろうと、変わりはありません」
 福音の朗読のあとに僕は、そう言った。
 小さな町の小さな教会だから、たいていはお互いに顔見知りばかりなのだが、最近になって、外国人の女性がひとりで来るようになったからだ。
 ミサが始まって、少ししてから『罪の告白と回心の祈り』のあたりだろうか。聖堂の後ろの暗がりにひっそりと立っている姿を見るようになった。
 彼女は、同じ学校の教員のお嬢さんだ。
 そんな暗がりにてさえ彼女のことは、よく見えた。
 いつも閉祭の挨拶をするころには、そっと出て行ってしまう。
 ミサの時間は、一時間ほど。帰っていく会衆と少し立ち話をしてから、礼拝堂を閉めて僕の仕事は終わる。

 そんな僕のことを彼女は、こっそり物陰から見ているのだ。恥ずかしそうに、もじもじとしている。
 人見知りなのだろうか。
 そんな子供じみたしぐさが、可愛らしいというか、かわいそうだというのか。見ているだけで、切なくも、たまらない気持ちにさせられた。
 まるで、年頃の娘を持つ父親の気分だ。

 こちらから、声をかけてみると、少しうつむき加減で暗い表情が、にわかに明るくなる。
「こんにちは。今日はひとりなの?」
 僕がそう言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「いつも両親と一緒なわけではありません。でも、わたしの母はとても心配性だから、ひとりで出歩くのを心配するんです」
「今は。大丈夫なの? お母さんに叱られたりしない?」
「ええ、もちろん、だって、私はそんなに子供じゃありません」
 確かに、彼女は子供ではない。歳のころは、二十代半ばほどか。なかなかの美人だ。

「それなら、よかったら食事につきあってくれませんか。今日は、ちょっと寝坊して朝食もまだなんだ」
 そう言ってから僕は、周囲を見回しながら、彼女の耳もとで囁いた。
「あんまりお腹が空いてね。あやうく聖体拝領のホスチア(無発酵パン)を、僕が残らず、食べてしまいそうになったぐらいだよ」
「だって、神父さまのホスチアは、あんなに大きいのに、まだ足りないの?」
「神父のものは、みんなで分け合うために大きいんだもの」
「あら、キリストのからだを神父さまが、信徒の方に授ける前に全部、一人で食べてしまったら、たいへんなことになっちゃうわ」
 目を大きく見開いて、彼女は僕に合わせて、こっそりと耳打ちしてくる。そうしてから、ふたりで大笑いしてしまった。
 たわいない冗談なのに、何がこんなにおかしいのだろう。
 でも、それは僕だけではなく彼女も同じだったようで、ひとしきり笑いころげてから、ようやく言った。
「ありがとう。神父さま。ご一緒させていただけたら、とても嬉しいです」

 一度、彼女の両親から紹介されただけで、それほど親しいわけでもない女性を食事に誘うなんて……僕にとっては、思い切ったことをしたものだ。



「ねえ、せっかく一緒に食事をするなら、その“神父さま”はよしてくれないか?」
「あ、先生とお呼びするべきかしら」
「確かに先生には違いないけど、きみは僕の教え子ではないでしょ?」
「そう……ですね」
 なぜか、僕の言葉に傷ついたように彼女は、またうつむいてしまった。
 いや、そんなつもりじゃなかったんだよ。あわてて僕は、言った。
「名前で呼んでくれないかな。シュテファンって」
 またしても、彼女の表情が変わった。ぱあっと花が開くような……そんな印象だ。
 内側から、きらきらと光がこぼれるようで、まぶしかった。それは比喩的な意味でもなんでもなくて、本当に彼女の笑顔は、目に沁みるほどきれいだった。
 若い女性とは、こんなにもクルクルと表情が変わるものだろうか。

「それなら、私のことも“せーら”って、ファーストネームで呼んでください」
「セーラ。きれいな響きだね。日本語だとどういう意味なのかな」
「空の星と……えっと、この字は、漢字で書くとこう……」
 セーラは、テーブルにあったナプキンに、自分の鞄から取り出したペンで、やけにカクカクと画数の多い文字を書いた。
 少しくらいなら日本語も知っているつもりだったが、僕のまるで知らない漢字だ。
「これで“|螺《ら》”と読むんです。星螺。これが私の日本語の名前……日本人でも、ちょっと読めないかもしれないんだけど」

「そんなムズカシイ言葉なのかい。どういう意味なの?」
「渦巻き形……とかって、あの奈良の大仏様ってご覧になったこと……ありますか?」
「ご覧になったこと……あるよ。その敬語も止めないか。せっかくファーストネームで呼んでいる意味がないだろう」
 僕がそう言うと、また彼女は、真っ赤になった。
「あ、……ええ、そう。あの……大仏様のね……」
 目の前に置かれたカップの取っ手を触りながら、セーラは言葉を探しているらしい。
「あの頭のブツブツて、知ってるかしら?」
 ダイブツの頭……と聞くと、すぐに思い出す。特徴的なあの髪型。
「パンチパーマ?」
「やだ。パンチパーマなんて、どうしてシュテファンが知っているの?」
「ずっと昔、日本に旅行へ行ったときに、入った理髪店でうっかりパーマをしたら、パンチになっちゃったんだ」
「嘘。もう、シュテファンってば、嘘ばっかり」
 そう言って彼女は、笑う。
 本当にセーラはよく笑う子だ。若いということは、どんなことでも新鮮に見えるらしい。
 それは、僕にも言える。
 彼女といると、どんな些細なことでさえ、新しい発見のような気がする。



「ああ、きみが何を言いたいのか分かったよ。螺髪というんだろう。あの仏像の頭」
 僕がそう言うと、彼女は、大きな眼を瞬かせた。
「そんなこと……よく御存じなのね」
「仏教にもちょっと興味があってね。ずっと昔に、日本にも行ったことがあるんだ」
「この国からじゃ、直行便もないから、ずいぶんとかかったんじゃない?」
「そのころは、世界中を飛び回っていたからね」
「すごいわ」
 そう言って、彼女は、まるで夢を見ている人のようにぼんやりとした視線を僕にあてた。
 たぶん、彼女の世界はとても小さいのだろう。
 僕は、なんといっても、二十代の彼女よりも、ずっと長く生きている。
 だから、見聞が広いのは当然だ。

 こういうのをなんというんだっけ。
 50歳の人間にとっての10年間は、5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになるらしい。
 子供のころには、どんなことでもワクワクしたりドキドキしたりするのに、大人になるとそんな感動も薄くなってしまうから、時間が短く感じられる……というわけか。
 彼女は、5歳じゃないけど、僕たちの年齢差は、親子ほどもある。
 でも、僕は彼女の父親じゃないんだ。
 彼女のおかげで、僕は、胸のトキメキと言うものを知る。
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