第一章 神託

 ――ねえ、スティーヴン?
 小さな声が耳元で聞こえた。
 よくよく注意していないと、聞き逃しそうなほどの細い小さな声だ。
 ――ステキなことだよ。ねえ、スティーヴン。聞いてるの?
 僕は、髭を剃りながら、その声を黙って聞いてた。だが、奇妙な呼び方には閉口する。
「頼むから、僕の名前を英語読みにするのは止めてくれないか」
 カミソリを水で洗い流し、タオルで顔を拭くと、鏡に写る自分の顔を見た。
 特別ハンサムってわけじゃないけど、悪くはない。
 三十代にしては、少々、童顔なのが気になるところではあるが……。

 ――だからぁ、聞いてよ。スティーヴン?
「聞いてるよ。リンクス」
 僕は、自分の左肩の上にのった小さな友人に応える。

 ――シュテファヌス。こっちだ。
 今度は、右肩から声が聞こえる。
「ああ、すまない。レヒツ。だけど、きみは、僕をそんな古風な呼び方にしないでほしいんだけどね」
 ――何を言ってるのかね。偉大なる教皇猊下のいらっしゃる国をどこだと思っているのかね。
「ローマ」
 面倒になって、テキトウに応えたのがまずかった。もう一人の小さな友人は、僕の肩の上で、真っ赤になって怒り出した。
 ――ローマではない。ヴァチカンだ! お前は、そこで司祭となったのでは、なかったのかね?
「そうだよ。僕は、そこの聖職者だよ。まったく分りきったことさ」
 ――ならば、ヴァチカンの公用語はなんだ?
「ラテン語」
 ――では、問題なかろう。

「でも、僕は自分の名前を母国語で呼んでもらいたいんだよ。シュテファンって……分かる?」
 ――イマドキの若い者は、なんという……。
 もともと青い顔をしていたレヒツが、いっそう青ざめてがっくりと、その場に座り込んでしまった。もちろん僕の肩の上だ。
 それまで、まるで重さなど感じなかった彼の体重がずっしりと肩にのしかかってくる。
 よく肩が凝ると、日本人が言うのは、こういうことなのだろう。
 肩ばかりか、頭まで重い。
 これ以上、彼の気分を損ねるのは得策ではない。

「分かったよ。きみの好きなように呼ぶといいさ」
 ――当然だ。シュテファヌス!
 現金なもので自分の言い分が通るとレヒツは、僕の肩の上でそっくりかえった。すると、肩の重さは、ふっと消えてしまう。



 僕と彼らとの付き合いがいつから始まったものか。
 すっかり忘れてしまったのだが、気がつけば、もうずっと彼らは、僕の肩の上に止まっている。
 まるで小さな小鳥のようだ。それでも、ちゃんと人の形をしている。白雪姫に登場する小人みたいなお爺さんだ。
 なぜか、そんなファンタジックな存在が、常に僕の傍にいる。
 キリスト教でいうところの守護天使か、記録天使。
 仏教なら、倶生神なのだろうか。
 人が生まれた時から、その両肩にいて、すべての人間の善行や悪行などを記録して、神に報告するのだという。
 昔から僕は、人には見えないものが見えたり聞こえたりしていたのだが、彼らのせいだったのかもしれない。

 もっとも、僕は、幽霊や宇宙人に関しては、ニュートラルでいたいと思う。
 完全に否定する気もないが、肯定して、それに縛られるのはイヤだ。
 イヤだとは言いながらも、今もこうして、彼らと会話しているあたり……すでに縛られているのかもしれない。
 いや、待て……ただの妄想だという可能性もある。

 僕の右肩にいる年寄口調なのがレヒツ。右という意味だ。
 若い……というより、ちょっと幼いのがリンクスで左。こっちは、当然のことながら左肩にいる。見たままの呼び方だが、本人たちは、それで納得しているらしい。
 ただ、彼らのほうが僕を呼ぶことに関してだけは、奇妙なコダワリがあるようだ。

 ――もう、いい加減にしてよ。スティーヴン。ちゃんと聞いておくれよ。
「ああ、話が途中だったね。リンクス」
 僕は、髪に櫛を入れながら言う。
 男の朝の身支度には時間なんてたいしてかかりはしない。ただ清潔でいるためには、注意が必要だ。
 髭の剃り残しはないし、シャツも僧服スータンも、クリーニングから戻ってきたばかりものだし……。靴もきちんと磨いておいた。

 ――こちらも、言いたいことがあるぞ。シュテファヌス!
「いいよ。どっちの話も聞いてるから」
 鏡越しに僕は、二人に調子よく応えた。
 ――ステキなことがあるんだよ。
「それは、さっき聞いたね。なんだい?」
 ――ああ、ホントにステキだよ。スティーヴン、きっと、きみだって、そう思うよ。
「楽しみだよ。早く教えて」
 彼らは、こうやって不思議な予兆めいたことを告げてくれることがある。
 良いこともあれば、悪いこともあった。
 以前は、頑なに耳を塞いでいたけど、最近では、そのどちらも楽しんでいる。なぜかっていうと、この世界に起こることは、良いことも悪いことも、すべては繋がっているからだ。

 ――回りくどいぞ。もっと端的に言え。
 レヒツが言う。彼は、その年よりっぽいのは、口ぶりだけではなく短気でもあった。
 リンクスは、頬を膨らませて、ちょっとむくれたみたいだ。
「そうしてくれると、嬉しいよ」
 すると、珍しくレヒツがにやりと笑ったような気がした。
 彼は、まるで小人の長老のようで、めったに笑わない。

 ――シュテファヌス……お前は恋をする!

「へえ……そいつはステキだ」
 僕は、ちょっとからかうような口ぶりだったかもしれない。
 レヒツは、下唇を突き出して、不機嫌をあらわにする。
 そんな顔されても、それはちょっとムリがある。
 僕が聖職者だから恋なんてしない……ってわけじゃない。
 聖職者だって、心があるんだから、恋をすることだってあるには違いないだろう。
 ただ、僕の場合は、あまり恋愛感情とかそんな優しい甘い感情からは、ほど遠い人間だ。

 ――ちょっと、違うよ。恋をされるんだよ。
 レヒツに先を越されて、むくれていたリンクスが慌てて言った。
 ――きみより、ずっと年下の女の子だよ。
「年下の?」
 もしかしたら、生徒に慕われる……ぐらいの意味か?
 欧州の小さな町にある音楽学校で教鞭をとっている。自分で言うのもなんだが、教師としては人気のあるほうだ。
 ――今……13歳だね。
「へえ、可愛い子かな」
 ――残念ながら、可愛い子ではない。
 レヒツが、言った。どうやら今度は僕がからかわれているらしい。

 ――可愛いっていうタイプじゃないけど、すばらしい美人だよ。スティーヴン。
 反対側から答えたのは、リンクス。
 彼らは、真実だけを僕に告げる。にわかに僕は、その13歳の少女に興味を持った。
 今まで、どんな有名な映画女優やモデルでさえも“すばらしい美人”だなんて、彼らが女性のことを言ったことがなかったのだ。

 だから……それは決して邪な想いからではなく、本心から僕の興味を惹いた。
 なぜなら、僕は、芸術家だからだ。
 画家として、あるいは、写真家として個展を開くこともある。
 いや、芸術を愛するから……それだけじゃない。
 誰だって、そうじゃないか。天使が美人だと断言するような女性なら一度は、逢ってみたいと思うだろう。

 ――でも、出逢うのは11年後のことだよ。スティーヴン。
 やっぱり僕は、彼らにからかわれているらしい。
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