【一部に、チベット問題に関する記述があります】

第一章 現世における人の自己欺瞞




“ラジエルの書”と呼ばれる本がある。
 神の玉座をおおう帳の中に立つラジエルは、この地と天のすべてを知り尽くしているという。その万物の原理は一冊の書にまとめられた。
 それは、楽園を追われることとなったアダムに与えられ、のちにノアの手に渡る。
 ノアは、書物から得た知識で方舟を建造して大洪水を逃れたという。
 さらに時代を下り古代イスラエルの王ソロモンに“書”は魔術を与えた。
 現在も大英博物館所蔵されるレメゲトン(魔導書)の元とも言われているが、こちらはさだかではない。

「これ……“ラジエルの書”」
 デヴァドゥルガは、一枚の石版を見せた。
 刻み込まれているのは、楔形文字のような象形文字のような、奇妙な文様で読むことは不可能だ。
「でも、読めないんだったら、これが本物かどうか判らないわ」
「本物と違う証拠もない」
 真菜を見上げて少年は、日本語で答える。
 言葉数は少ないが、かなり流暢なものだ。いったい誰に教わったのだろう。
 デヴァドゥルガの日本語もその容姿も周りの風景とは、あまりにも不似合いだ。
 乾いた褐色の大地。酸素の薄いこのあたりでは、まるで別の惑星のようにさえ感じる。
 海抜は平均4000m以上で世界の屋根と称されているヒマラヤ山脈はチベット側からは大地の母――チョモランマ。
 ネパールだと宇宙の頭――サガルマータと呼ばれていた。英語名ではエベレストになる。

 真菜にとってヒマラヤは、憧れの山だ。
 だからこそ、大学の山岳部の遠征隊にも入ったのだが、残念ながら真菜の登山技術では、エベレストへのアタックはまだ無理がある。また莫大な費用も必要だ。
 それでもチベットからのルートである首都ラサから、途中のベースキャンプまでならば、同行も許された。
 山道を村から村へ歩き、現地の人々の生活にじかに触れながら少しずつ高所に登り、白銀の山を目指すのである。
 麓の村で真菜が最初に逢ったシェルパ族が、このデヴァドゥルガだった。
 十歳にもならないだろう。本人も自分の年齢を知らないらしい。大きな眼が印象的だった。
 このあたりでは見たことのない黄色の眸に、燃えるような赤毛をしている。
 光の具合でその目の色は、猫のように変わって時々、金色にも見えた。
 初めて逢ったデヴァドゥルガは、人に馴れない獣のようだったのをよく覚えている。
 村に仲のいい子供がいるようにも見えず、いつも離れたところからほかの子供たちを眺めていた。
 それでも外国人の登山者。それも若い女が珍しかったのか(たいていの観光客は、真菜より年上の女性に見えた)手の届かない距離を保ちながら、近づいてくる。
 野良猫を相手にしているような気分で真菜は、彼と親しもうとした。
 いつも、たった一人でいる幼いデヴァドゥルガが、かわいそうに思えたからかもしれない。
 聞けば身内はおろか、どこに住んでいるのかさえ知っている者はいないようだ。
 ふらりと村へ降りてきては、子供たちが遊んでいるのを遠巻きにみているらしい。
 初めて逢ったデヴァドゥルガは、人に馴れない獣のようだったが、真菜は根気良く親しもうとした。

 彼と親しくなるきっかけは、真菜の持っている数珠である。
 言葉も通じないと思っていた相手が突然、日本語を話しだしたのは衝撃的だった。大変な興味を持ちデヴァドゥルガは、熱心に欲しがった。
 真菜が数珠を持っていたのは、敬虔な仏教徒だからではない。
 仏教国であるチベットに行くなら数珠は必携だと、ガイドブックに書いてあったのをそのまま実行しただけである。
 地元民の多くは木製の数珠を持っていたが、日本製の派手な数珠はどこでも注目の的だった。
 深く考えもせずに数珠を与えるとデヴァドゥルガは、よほど嬉しかったのだろう。少しずつ真菜近づいてくるようになった。
 デヴァドゥルガは、どこで覚えたのか日本語に精通している。
 だが、いつも村で通訳をしているわけではない。それでも村人たちは、この少年に最大の敬意を払っているのが、異邦人の真菜にも判った。
 あいにく真菜にはチベット語も中国語も理解できないので、それがなぜなのかは知ることができない。いつも彼が一人でいるものそのせいなのだろう。
 この遠征隊の隊長である山岳部のコーチに訊いてみると少年は、なにやら高位の聖職者の弟子だという。

「ねえ、デヴァドゥルガくんのお師匠様って、ラマ僧なの」
「ラジエル様は……監視者だ」
「監視……?」
 なんの監視をしているのか……と訊くと、デヴァドゥルガは“天使”と答えた。
 天使の監視者。人間ではないという。
 これも、彼らの宗教なのだろうか。
 いわゆるチベット仏教とは、また別のものらしい。
「それじゃ、デヴァドゥルガくんも天使なの?」
「違う。ラジエルの書セファー・ラジエールの写しを……取っている」
「その書って、何が書いてあるの?」
「宇宙創世に関わる全ての秘密の本。方舟の作り方もある……」
 ハコ船と聞いても、どんなものなのかは判らない。宇宙創世とくれば聖書なのか。だとすればハコ船は、ノアの方舟なのかもしれない。
 子供が手にする石版は小さくそんな膨大な知識が刻まれているふうには見えなかった。
 まして、こんなチベットの山奥でキリスト教の信仰が行われているとは考えにくい。
 セファー・ラジエール。
 この言葉はコーチも知らなかった。



 村人たち聞いても御使いは、人前に姿を現さないのだと言う。
“御使い”という表現が、本当に天使のようなのだが、日本語では他にうまい表現がないらしい。
 ラジエル様という名前を呼ぶのは、デヴァドゥルガだけで他の誰もその名を口にはしなかった。
 不可思議な存在への純粋な畏れと敬意。そしてあいまいな恐怖心が村人たちからはうかがえる。
 そのせいだろう。まだ子供のデヴァドゥルガに対してさえ人々は、敬遠していた。
 オープンで友好的なチベット人でさえ、そうなのだ。
 あるいは、宗教的というより、政治的な何かがあるのだろうか。
 監視者というのは、もしかしたらスパイなのかもしれない。
 チベット仏教は、今も厳しい宗教弾圧を受けているとそうだ。
 政治的、あるいは人権に関する情報などの話題は、危険でさえある。
 制服の警官だけではなく、膨大な数の私服警官たちが、デプン僧院、セラ僧院などの代表的な観光地では監視している。最悪の場合は、日本人であれ拘置と尋問の対象となるのだ。
「詮索好きの外国人は嫌われるぞ」
 コーチは、冗談ごとのようにそう言ったが、その眼は笑っていなかった。
 中国の警察がチベット人を暴行する光景を見かけるのは、稀ではない。

 もしかしたら、このまま無事に日本には帰れなくなるのではないだろうか……。
 漠然とした不安が、膨れ上がる。
 それでも、ようやく話のできる相手を見つけて喜ぶデヴァドゥルガにつれない態度をとりたくはない。
 短い滞在の間だけでも、誰かひとりでも優しくしてくれる人間がいてもいいのではないだろうか。
 すべての貧しいチベットの子供たちには無理でも、たった一人でも、ほんのわずかな時間でも、彼のために何かできることをしたかった。
 いや。
 彼のためではない。これは、ただの自己満足だ。



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