最終章 狡猾なケーキ。

おめでとうフロニャ・ポラ!」
 突然、わたしたちの周囲から拍手と歓声が上がる。
 さすがにレオーネも、唇をはなす。
 二人の間に銀色の糸がつながり、わたしは恥ずかしさで頭が爆発しそうになった。
 長い髪を派手な色に染めた青年もいれば、くたびれたスーツにきちんとネクタイを締めたおじさん(ミサの帰りなのだろうか?)までが、わたしたちの周りに集まってどよめいている。

「な、何ごと……」
 ギリシャ語が分からないわたしは、レオーネに聞くより仕方がないのだが、そのレオーネは人々の激励をうけているらしい。
 片言の日本語も聞こえる。バンバンと肩を叩かれたり、握手をされたり。
 わたしといえば、見知らぬ若い女性からの熱い抱擁に眼を白黒させる。
 何が起こっているの?
 店のウエイターがばちんと音のしそうなウインクをして、テーブルの上にケーキを置いていく。
 ケーキと言ってもギリシャでは、デニッシュなど甘いパンもケーキと呼ばれるので、これはトゥルタというのだろうか。
 ご丁寧に生クリームとアイスクリームまで添えられている。
 頼んだ覚えはないのだが……

 ひとしきり人々の祝い(?)の言葉をかけられたレオーネは、うんざりしたように席に座る。
「誕生日おめでとうと言ってる。……日本語学校の生徒らしい」
「は?」
「日本人の彼女とうまくやれだと」
「あの人たち、レオーネのお知り合い……」
 レオーネは黙って首を振った。
 そうだろう……とは思うが、わたしは釈然としないまま正面の席に戻ろうとするのを、腕を引っ張られる。
 何?
 びっくりしたけど、レオーネはそのままわたしを自分の横に座らせる。
「ギリシャ人はこうやって、隣あって座るのが常識なんだよ」
「ええっ!」
「そうやって、サクラは恥ずかしがるから、きみに合わせていたんだけど、郷に入っては郷に従えだろ?」
 そう言いながら、レオーネはわたしが逃げられないようにしっかりと、腰を抱いている。
「や……です」
 恥ずかしくって、もう顔から火が噴いているみたい。頭に血が昇って、くらくらしてしまう。
 ああ、神さま。

「嘘だと思うなら、回りを見てごらん。皆、隣り合って座るだろう」
 そう言われてみれば、男女の関係なく4人掛けのテーブルに座る二人組みは隣同士に座っていた。
 肩が触れそうな距離感がギリシャでは、当たり前なのだろう。
 この近辺は外国人が少ないから、わたしたちのような二人連れは珍しかったのだろう。妙に注目されていると思ったら、そういうことか。別にわたしたちがつり合いの取れない二人づれだとそんなふうに思われていたわけじゃないみたい……。
「きみは一人でタクシーに乗ることはないだろうから知らないと思うけど、こちらでは助手席に乗るのが普通だしね」
「でも、でも……」
 何を言っていいのか判らないまま、あせって無意味に両手を動かしているうちに、テーブルにぶつけた。
 どんと鎮座していた甘そうなケーキに、指先が触れてしまう。
 我ながら、なんてドジなの……。

「ご、ごめんなさい……わたし。せっかくレオーネさんが、いただいたものを」
「これは俺じゃなくて、サクラにもらったものだよ」
「え……どうして」
 ケーキには、蜂蜜がかけてあったらしく、てらてらと光っている。指にも蜂蜜がべったりとついてしまった。
 いくら甘党のわたしでもギリシャ人の味覚の凄まじさにはついていけないものがあるのだ。
「ヨルティは祝ってもらう方がふるまうんだ」
「でも、ヨルティ……って、ギリシャ人特有の……」
「“どのヨルティにも属さない名前を持つ人のヨルティ”という日もあるのさ」
 それじゃ、外国人はみんなそうなるんじゃないの? 納得できない……。

「本当に一人で食べるの?」
「当然だろう。言っておくが持って帰るっていう選択はないからな」
「なんで?」
「当たり前だろう。皆、きみのことを気にしてくれているんだから」
 気にしてるって……。どういうこと?
 周囲を見渡すと、さっきわたしたちの周囲に集まって拍手をしていた人たちが、こっちを見ている。眼が合うと皆にっこり笑ってくれるけど……。
「お願いです。手伝って……そんなの無理です」
 情けないほど、わたしは泣き声になっていた。
 この咽喉を焼くほど、甘いケーキを一人で完食できる自信はない。
「俺が甘いものが苦手なのは知っているだろう」
「お願い!!!」
 救いを求めるような気持ちで、レオーネの顔を覗き込む。
 二つの眸は胸に沁みるほど綺麗だった。
 こんな無精ひげなのに、見惚れてしまう。
 野生のライオンみたい。



「サクラがそう言うなら」
 いきなりレオーネは、わたしの手を取った。さっきケーキに触ってしまった指先を捕まえると、そのまま口に含む。
 彼が何をしているのが、すぐには判らなかった。
 生温かい感触。
 湿った舌が指の腹を撫でてゆく。
 手をひっこめれば、それで済むことなのに動けない。
 後ろの席で、長髪の青年が口笛を吹く。

 ――嘘。嘘。嘘。嘘……!!!

 頭の中はぐるぐると同じ言葉が回っている。
 いっそのこと昔のギャグ漫画みたいに、泡を吹いて倒れてしまったほうがまだマシだ。
 どうすることもできなくて、わたしは身体をこわばらせる。
 ちゅっと音をたてて、彼の唇から指が離れた。
 全身の血の流れが頭のてっぺんまで昇ってしまう。
 それでも彼は、わたしの手を離さない。

「どうせ、甘いなら俺はきみのほうがいい」
 そう言いながら、レオーネは抱き寄せた手にいっそう力を込める。
 慌ててわたしは、その手を払いのけ、レオーネから顔を背けた。心臓が口から出そうなほど、バクバクと音を立てている。
 また、この人はわたしをからかっているのだ。
 悪ふざけにもほどがある。
 だからといってわたしは、彼を本気で拒絶したりはできないし、受け入れることもできない。
 それなら、どうしたらいいの。
 もう、わたしには判らない。判らなかった。
 誰もそんなことを教えてくれなかった。父も教区の司祭さまも。
 こんなときどうしたらいいのかなんて……もしかしたら、神さまだってご存じないのかもしれない。

 わたしは深く息を吸い込んだ。
 とりあえずは、目の前の現実に挑むしかない。  孤立無援の状況は、どうしようもないことだ。今に始まったことじゃない。
 どんな困難だって、人は乗り越えることができるはず。
 たとえば、このケーキのことだって。

「いいです。別に無理して、全部食べなくてもいいんだから」
 そう言いながら、わたしはケーキにフォークを突き立てた。心の中で冷静になれと自分を叱咤する。
「おひとよしのサクラが、それを途中で残して席を立てるものならばな」
 レオーネの言葉に振り返ると、周囲の客たちはみな、こちらをニコニコしながら見ている。
 なんてフレンドリーな国民性なんだろうか。
 陽気で人懐つこくて……他人のことが気になってしょうがない。世話好きで……ちょっぴり、おせっかいだったりして。
 議論が大好きで、古い文化を大切にする人々。
 そんな彼らの優しさを無碍にできるわけない。
 まして食べ物を粗末に扱うなんてこと、絶対にしちゃいけないんだけど。

 まるでこちらの考えを見透かすように、レオーネは艶やかに微笑んだ。
 確かにその顔は、獣に似ている。
 若く、精力的で逞しい。敏捷でしなやかな美しさを持ち、そして狡猾だ。
 爪と牙が、ちらりと見えたような気がした。
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