最終章 神の仔羊




「わたしは生涯、鞠乃を手放せそうもない」
 にっこりと微笑むコンスタンティヌスの眼が笑っていない。
 ぞくりと鞠乃は背筋が寒くなった。
「コ、コンスタンティヌス……先生?」
「先生はもう止めてください。我々は夫婦となるのですから」
 その手が、スカートの奥のまだ異物感の残る場所に触れる。
「あ、あの……悪魔はもう退治したはずじゃ……」
「また復活しました」
「ま、待って……もう無理……」
 ようやく乱れを直した服の上から、胸をつかまれ、敏感な部分をこすられた。
「冗談ですよ。やっと貴女をわたしのものにできたから、つい嬉しくて苛めたくなっただけです」
 泣きかける鞠乃の額にくちづけて、コンスタンティヌスはいかにも楽しげに笑っている。
「ひどい」
「わたしはひどい男ですよ。なにせ悪魔はこのわたし自身ですから、貴女は一生、わたしを封じ込めねばなりません」
「そ、そんなこと……無理です」
「鞠乃……」
 ふいにコンスタンティヌスの表情が固くなる。
「わたしは貴女のためなら、いつでも信仰を捨てることができます」
 赤褐色のまつげがゆっくりと持ち上がり、切れ上がった眼が強く鞠乃を見据える。
 何もかもが、心の深くまで見通されるようだ。
 女性信者たちが、噂をしていたのを思い出す。
 奇麗な神父さま。まるで大天使のよう……近寄りがたい。皆がそう言っていた。
 高齢の婦人までもが、コンスタンティヌスの前ではうっとりと少女のように頬を赤らめているのを見たこともある。
 神に仕える人に対して、こんな気持ちを抱くのは、決して許されない。
 でも、もしかしたら……。

「先生が捨てるのは信仰ではなくて、あたしのほうでしょう」
 不安が大きく膨れ上がり、思わずそれを言葉にしてしまう。
 唇をかみ締める顔を見られたくなくて、鞠乃はうつむいた。
「なぜ、そんなことを」
「だって、中世のお話でありました。先生と同じように悪魔を封じ込めた司祭は、いつか娘が疎ましくなっていくんです」
「それは、十日物語デカメロンか。それともラ・フォンテーヌでしょうか」
 少し驚いたようなコンスタンティヌスの声に、鞠乃の肩が震えた。
 喉に石を詰められたように苦しくなる。
 言ってしまったあとで、たまらない後悔に襲われた。黙っていれば、その間でも幸せでいられたのかもしれない。
 いつかは捨てられてしまうかもしれないけど、それはもう少し先延ばしになっていたはずだ。

「本当に……貴女ときたら……悪い本を読んでしまわれたものだ」
 コンスタンティヌスの指が、鞠乃の顎につまんでもちあげる。
 すぐ目の前に琥珀色の双眸があった。筋の通った鼻筋。薄い唇。
 肌理の細やかさは東洋人のようだ。
 そんな場合でもないのに、思わず見惚れてしまう。
 鞠乃はあわてて頭上のマリアの聖画像イコンを見上げた。
 狂おしいほどの思いにどうしたらいいのかわからなくなる。
「貴女を騙したわたしを恨んでいるのですか」
「……違います」
 コンスタンティヌスは、まったく見当外れなことを言う。ますます、鞠乃は悲しくなってきた。
「あたし……コンスタンティヌス先生が好きなの……だから」
 鞠乃が言い終わる前に、唇がおしつけられる。
 深いくちづけをかわし、酸欠状態まで追いやられた鞠乃の咽喉もとに胸にくちづけの痕を残しながら、コンスタンティヌスの低い声が耳に響く。

「初めてですね。鞠乃がわたしのことをそんなふうに言ってくれたのは」
 コンスタンティヌスは、鞠乃の身体を包みこむように抱きかかえた。
「この身は神に捧げたものですが、今のわたしにとっての神は貴女だ。だからこそ、この場所を選んだのです」
 くすくすっと、笑うコンスタンティヌスは艶やかで美しかった。
 僧服の下からは想像もできなかった厚い胸。でも今はすべて知っているそこに、もたれかかり鞠乃は安心する。
「そんなこと……あたしのせいで、戒律を破ったんです。だから、このままでいいんです」
 コンスタンティヌスは眉根を寄せる。
 美人というものは得だ。こんな顔をしてもやはり奇麗なのだから……。
 場違いなことを思いながら、鞠乃はコンスタンティヌスの胸にいっそう身をすり寄せた。
 ほかの誰もできないことを、自分はこうしてできる。もうそれだけで満足だった。
「このことは誰にも言いません。ふたりだけの秘密です」
「鞠乃、わたしは」
「皆、先生を愛しているんです。それは、もちろんあたしとは違う意味だけど……でも、あたしも先生が信仰を捨ててしまうのはいやなんです」
 冷静に、落ち着いて話そうと思っているのに、言葉はうまくまとまらない。
 鼻の奥がつんとして、またしても涙がこみあげてきた。
 泣くな。あたし……。
 泣いたりしちゃいけない。そう自分に言い聞かせるのに、うまくいかない。
 ちゃんと先生の顔を見て話そうとしたのに、どうしてもできなかった。
 祭壇の上で、愛人としてそばにおいてくださいと言ってもいいのだろうか。鞠乃はゆっくりと深呼吸をした。

「鞠乃……」
 コンスタンティヌスは、膝の上に鞠乃を抱えたまま顔を覗き込んでくる。
 祭壇に押し倒されたときから、こちらばかりがみっともない姿を晒しているのに、この神父ときたら服はおろか呼吸の乱れすらない。
「このままのわたしでよいのですか」
 そう言って、わざわざ確認をする彼の表情は複雑だった。
「はい」
「それならば……まだ、わたしはまだ助祭叙階をしておりませんから、このままで結婚してもらえますか」
「は、は、はい……えええっ!?」
 はずみで返事をしてしまってから、鞠乃は慌てた。
 ちょっと待て、なんで結婚なの?
 プロテスタントならともかく、カトリックの司祭は妻帯できないはずじゃ……。
「終身助祭ですよ。ご存知ありませんか。助祭叙階後には結婚できませんが」
「そ、そうなんですか……?」
 嬉しい反面、拍子抜けしたような、おかしな気分だった。
 変な結婚の申し込まれ方……。なんだか順序が逆だ。
 でも、この人ならそれもありえるかもしれない。
「司祭にはなれませんよ。それでもよろしいですか?」
「先生が普通のサラリーマンになるほうがいやです」
「これでも教会法のほかに、民法の博士号を持っているので仕事はあると思うんですが」
 それ以外に教員免許も持っていたはずだ。
 おそらく勉強ばかりしていて、肝心なところが抜けているのだろう。
 天然なのは、今に始まったことではない。
 だからこそ、誰もが惹きつけられ、いつの間にか呑み込まれてしまう不思議な魅力を彼は持っていた。
 外見の美しさと裏腹に、どこか浮世離れしたような神父。
 ヴァチカンの、神聖でちょっと埃臭い空間がとても似合っている。
 だが、その実情はとんでもない破戒僧だ。

「キャソックとローマンカラーじゃない先生なんて、ちょっと想像できません。でも、枢機卿様みたいな真っ赤な服なんて着て欲しくないです。やっぱり、そのままでいてください」
 きわめて真剣に言う鞠乃に、コンスタンティヌスは声をあげて笑う。
 彼がそんなふうに笑うのを見るのは、初めてだった。
 教会では、それは許されていないから。

 でも、神はこうして間違いを犯し、よろめきながら、迷いながら歩む子羊たちをなおも愛してくださっているのではないだろうか。
 とうに助祭叙階が終わっていてもおかしくないはずの神父が、まだだったというのも、偶然ではないような気がする。
 今、こうしてふたつの魂をひとつに結ぶことができたのも、神の思し召しだったと……鞠乃は頭上にある黒い聖母と、正面の磔刑のキリストを見上げて思った。
 同じことをコンスタンティヌスも考えていたのだろうか。
 目が合うと、祈りの言葉のように彼は囁いた。

「神と、この礼拝室のかつての持ち主であるお方に心からの感謝を……」



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