第三章 ポーランドの黒い聖母




 覗き込むようにコンスタンティヌスは、鞠乃に顔を寄せる。
 いつもなら穏やかに微笑んでいる双眸が、冷ややかな光を湛えていた。
 切れ上がったその眼はなんと美しいのだろう。
 色素の薄い虹彩。彼は半分だけ、母方のフランス人の血を引いている。褐色でも黒でもない琥珀の色。
 その眼に見つめられながら、鞠乃は心ごと抱きしめられたようだ。

 自分にしかできないのだと……救ってほしいと言われた瞬間、胸が妖しくざわめいた。
 だが、気がつけば祭壇の上に、鞠乃は押し倒されていた。
 ついばむようにくちづけされて、幸せな気分になる。
 かつて黒い僧服を着た尊い聖職者は、手の届かない遠いところにいた。
 その人が今は自分を選んでくれる。
 まるで、自分が物語の姫君になったようで、甘い夢の中に浸っていた。
 コンスタンティヌスの胸のロザリオが、押しつけられる。
 もっと近くに彼を感じたいのに、冷たい十字架が二人の間を阻むようで、鞠乃は切なかった。
 けれど、そんな少女趣味で甘やかな夢はすぐに、生々しい現実にかき消される。
 コンスタンティヌスは薄く開いた唇の間に舌を差し入れてきたのだ。
 生温かい男の舌が、鞠乃の口腔内をなぶり、舌の根が痛くなるほどに吸い上げられる。
 驚いて鞠乃はもがくが、コンスタンティヌスの腕は緩まない。恐ろしさに涙がこぼれ震えが止まらなかった。

「……愛しています。鞠乃」
 小さな子供をあやすように言われて、鞠乃は混乱する。
 この優しい声は、先ほどの猛々しいくちづけをした男と同じなのだろうか。
「嘘……」
「本当です。疑うのですか」
 そう言いながら、コンスタンティヌスは唇で涙を吸う。その優しい仕草に、鞠乃は心が蕩けてしまいそうになる。
「愛しているのです。貴女だけを」
 力強い、まるで誓いのようなコンスタンティヌスの言葉に、鞠乃は指先まで痺れたようだった。
 愛している……という言葉が、まるで呪文のように、鞠乃を絡めとる。

 身体の上にコンスタンティヌスの重さと温かさ、吐息を感じて、鞠乃はいっそう身を固くした。
 心臓の鼓動がただごとではなく、胸を突き破りそうだった。咽喉が干上がって思ったように声がでない。
 琥珀の眸に見つめられて、鞠乃は息が止まりそうになる。
 心臓の音を身体中に感じながら、鞠乃は陸にあがった魚のように口をぱくぱくさせていた。
「あの、あたし……」
「わたしが嫌いですか?」
「そ、そんなことない……ないです……」

 ふいに眉根を寄せるその表情が、なんとも言えず、切なげで鞠乃はもう抵抗できなくなる。
 やるせなく甘いその眸に惑わされるように、鞠乃は目を閉じた。
 ほのかに乳香が香る。
 これはミサの時に焚かれる振り香炉の移り香なのか。
 染み透るような芳香は、コンスタンティヌスによく似合っている。それに混じる微かな体臭は鞠乃の知らない男の匂いだった。
 痺れるような震えが身体を突き抜ける。
 身体中の血が頭に昇り、咽喉がつまって息苦しく、眩暈がした。
 急に熱病にでも、かかったかのようだ。
 身体の内側から炎に炙られて、鞠乃は喘ぐように荒い呼吸を繰り返す。





 鞠乃は両手で隠そうとしたが、すばやく押さえられた。
 決して乱暴ではなく、それほど力を込めているようにも見えないのに掴まれた腕はびくともしない。
 むき出しの乳房に外気が触れ、それをコンスタンティヌスが見ているのだと思うと、恥ずかしさで死にたくなる。
 コンスタンティヌスは艶やかに微笑んだ。
 まっすぐに見つめる眼差しは真剣そのもので、鞠乃はその琥珀の眸に呑み込まれてしまう。
「じっとして、動かないで」
 コンスタンティヌスの言葉は甘く、耳のそばで囁かれると気が遠くなりそうで、ほかのことなど考えられなくなる。
 イエス・キリストを抱いたマリア像が見下ろしている。
 ポーランド人であった前教皇に所縁の深い黒い聖母。
 マリア様……思わず、叫びそうになって、鞠乃は悲鳴を飲み込んだ。
 大声を上げたら、きっと外にいるスイス衛兵が来てしまう。



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