第二章 聖域




 どうやら、また泣かせてしまったらしい。
 昔から、この子は感情の起伏が激しいのか、ちょっとしたことですぐに泣きだしてしまう。
 もっとも泣かせるのは、いつもコンスタンティヌスだ。
 この子が自分に寄せる想いは、もうずっと以前から知っていた。
 もっと近しくしてほしいと望んでも彼女は、小さな小鳥のように逃げ出すか、いつも泣くのだ。
 気弱く見えて他の教師には、そうではない。厳しく叱責されることもあったが、俯いたりせず、つんと顎をそらせて相手の目をまっすぐに見ている。
 そもそも、小心な娘がたった一人で生活ができるほど、イタリアは安全な国ではない。
 まして、男ばかりのヴァチカンでの勤めでは、心やすい友達もできにくいのではないか。
 モザイクを敷き詰めた床に、彼女の涙の雫が落ちる。
「もう泣かないでください。わたしが触れたことがそんなにも嫌だったのですか」
 涙に濡れた顔がなんとも扇情的で、たまらない気持ちにさせられる。
 顔を傾けると黒髪が頬に零れて、その幼げな顔を隠す。
 鞠乃の面差しは子供のようで、昔から少しも変わらない。

「そ、そうじゃ、……ない……違うんです」
「何が違うのです」
 コンスタンティヌスは、ゆっくりと問い返した。
 唇を寄せて瞼に口づけると、鞠乃は弾かれたように、身体を震わせる。
「許してください。貴女があまりに辛そうに泣くので、つい……」
 男に触れられたことが、哀しいのか。
 鞠乃はいっそう昂ぶったかのように、しゃくりあげて泣き出してしまう。



「あたし……変なんです。すごく変なんです」
 唐突に鞠乃はそう言った。
 彼女の言動はいつも突拍子もないことが多い。
 もっとも浮世離れしているのは、ここでは変わったことではなかった。情緒不安定なのも少女のころから変わらない彼女の性格だ。
 突然泣き出したりするのも、ヴァチカンの生活が辛いのではないだろうか。
 いっそうこの子が愛しくも哀れに思えた。

「……だから、あの……あたし、変なのかも……すごく精神が安定しなくって、こんな……」
「それは、わたしのせいですか」
「いいえ、違います。違う。貴方のせいなんかじゃないんです。ただ、あたし……あの」
 コンスタンティヌスは、鞠乃の顔を覗き込んだ。
 まったく昔から彼女は、鈍感だった。人の気も知らないで……。
 困ったように眉根を寄せている顔は、彼女をいっそう幼く見せている。
 その黒い双眸は、生まれたばかりの赤ん坊のようにまるで穢れなど知らない。



「お願い……ですから、あたしにかまわないでください」
 震える声でつっかえながら鞠乃は言った。なんと可愛いのだろう。
 このまま抱き寄せたいのを我慢して、コンスタンティヌスは視線を鞠乃に合わせるように姿勢を低くした。
「鞠乃……わたしが貴女と同じ病に取り憑かれているのだとしたら……どう思いますか」
「……えっ?」
 泣き顔のまま、鞠乃は取り繕うことを忘れたように見上げる。
「わたしの中に悪魔がいて、それがわたしを苦しめるのです」
「先生を……」
「貴女に助けて欲しいのです」
 耳もとで囁かれて、鞠乃は一瞬、我を忘れたかのようだった。涙を零すままにまかせて、まっすぐにこちらを見つめている。
 はしばみ色の優しい双眸に見据えられてコンスタンティヌスは、まるで神の前にいるかのような錯覚を覚えた。
 岩間から溢れるルルドの清水のように穢れのない娘。
 彼女に触れてはならない。
 何者も手を触れてはならない天上の花だ。

「でも、あたしは先生のようには……」
 しばらく考え込んでから、鞠乃は申し訳なさそうに言う。
 中世の遺物のように言われる悪魔祓いも、現実にこのヴァチカンに存在する。
 各教区に公認のエクソシストは、最低ひとり配置されているのだ。
 第2回ヴァチカン公会議の典礼改革において削除されたサン・ミケーレ・アルカンジェロの祈りも聖下は奨励しておられた。
 悪魔払いのための祈りだ。
 いわゆる“拝み屋”だの“霊能者”などとは違う。


「ええ、わかっています。ただ、この悪魔は貴女にしか封じ込めることができぬものなのです」
「あ……あたしに……?」
 震えながらも、自分にしかできないと断言されたことに、鞠乃は励まされたのか。
 もはや彼女の涙は止まっていた。
 複雑かと思えば、彼女の思考はじつに単純で判りやすい。

「鞠乃……」
 コンスタンティヌスはゆっくりと言葉をつむぐ。
「わたしを救ってくれますか」
「え……?」
「貴女にしか、できぬことです」
 コンスタンティヌスがそう言うと、鞠乃は複雑な表情になった。
 驚いたような、困惑した顔でコンスタンティヌスを見つめる。


「あ、あたしに……できることなら……」
 祈るように胸の前で両手を組み、必死に訴える。
 この表情も、とても可愛らしい。
 愛しくてたまらない。
 どこまでこの娘はわたしを夢中にさせるのか……鞠乃のすべてが、わたしの心を捕らえて放さない。

「では、今すぐ」
「すぐ……あの、用意とかは」
「必要ありません。貴女はその身のうちに地獄をもっているのですから」
「じ、地獄!」
 少し脅かすように言ってやると、本気にして慌てる。
 まるで幼子のようだ。
 誰も触れたことのない清らかな魂を持ったまま、彼女は今までどうやって生きてきたのだろうか。
 言葉ひとつに敏感に反応して鞠乃は、眉間に皺を寄せ、唇を震わせている。
 何を考えているかなど、手にとるようにわかってしまうたわいなさに、コンスタンティヌスは笑いそうになるのをこらえて話を続ける。
「そうです。気づきませんでしたか」
「……そ、そんな……あたし……どうして」
 慌てふためいて、その場から逃げようとする鞠乃をすばやく抱きとめる。
 手の中の小さな小鳥のように身をよじってもがく姿は、神に仕えし身にさえ奇妙な興奮を感じさせた。
 中世の聖職者たちは、こうやって無垢な魂を意のままに扱っていたのか。

 コンスタンティヌスは鞠乃の膝裏に左手を差し入れ、背を右手で支えるようにして強引に抱き上げた。
「お、おろして」
「大きな声を出さないでください。人に知られたくはないのです」
 小声で囁くと、鞠乃は言いかけた言葉を口の中で、もごもごと封じ込めた。
 できるなら、この場でくちづけして黙らせてしまいたい気分だが、ここで警戒されては困る。聖下の回廊では、ごくまれには人通りもある。
 聖下の近衛兵や、他の神父たちに出会う前に人の来ない部屋の扉を開く。
 このヴァチカン宮殿は、ローマ・カトリック教会の総本山。ローマ教皇の住居である。
 システィーナ礼拝堂、ヴァチカン図書館、教皇庁の建物、ボルジア家の間、ニコラウス5世の礼拝堂、ラファエロの間など、カトリック信者よりも世界中の観光客で満ち溢れていた。
 だが、その奥には未だ公開されていない場所もある。
 前教皇が個人的に使っていた祈りの部屋もそのひとつだ。
 中央に磔刑のキリスト。右側にヤスナ・グラの聖母の絵が飾られている。



 逃れようともがく身体を絡め取って、壁に押さえつけた。
 細い両手首を、背後から掴みあげて縫い付ける。
 鞠乃は、怯えて抵抗するが日本人女性は脆弱だ。
 壊れそうなほどに柔らかな身体の儚さに、コンスタンティヌスは切なくなる。
 哀れな愛しい鞠乃。
 わたしに愛されたことが、貴女の不幸かもしれぬ。

「動かないで……ここは聖下の私室とはいえ、いつ誰が入ってくるかわかりませんよ?」
 わたしの言葉に、鞠乃は落ち着きなく周囲を見回した。
 こんな宮殿の奥深くまでは、一般人の侵入は許されていない。
 今は使われていない前教皇の私的祭壇のある部屋だ。
 だが他の神父たちが、どんなことで入ってくるか。部屋の鍵をかけたものの、外にはスイス衛兵がいる。
 ここは聖域であり、聖職者となった己がしようとしている行為は許されるものではない。



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