第一章 殉教者の首




 前教皇の個人的な礼拝室へ続く廊下は、恐ろしくてひとりでは歩けない。
 ガラスケースに収められた聖ステファヌスの首があるからだ。
 彼はキリスト教における最初の殉教者であった。
 初代教会において司祭につぐ職位である助祭として活躍したが、後に宗教裁判で石打ちの刑に処されたという。
 その首は二千年たった今も腐敗していない。
 ただ、惨い処刑の痕はそのまま残っている。



 初めてそれを見た鞠乃は、嘔吐しそうなほどの衝撃を受けた。
 もう1年以上も教皇庁にいるというのに、今でも忘れられない。
 これほどまでに生々しい首を、なぜローマ教皇がお通りになる廊下に置くのか。
 鞠乃には不思議でならなかったが、信仰と向き合うためにあえて、この場所にあるのだと教えられた。
 それを教えてくれたのは、美しい神父だった。

 確かに、あの神父の美貌は人ではないようだった。
 まるで、天上のもので、いつか、そこへ引き戻されてしまうのではないかと思うと恐ろしくもある。
 初めて出逢った時から、感じていたことだ。
 幼いころから知っている。
 ずっと十も二十も年上のようにも見え、それでいて時おり同い年くらいにも思えるような不思議な人だった。
 何の偶然か、彼の聖職位階も聖ステファヌスと同じく助祭であった。



 暗い廊下で顔を上げるのが怖くて、うつむいたまま足早に歩いていた。
 こんな日に限って、窓から射し込む日の光すらない。
 外は大雨だった。
 激しい雨と風にもかかわらず、ヴァチカンへ来る観光客の足は遠のくことがないようだ。
 人気のシスティーナ礼拝堂や博物館はあいかわらずの混雑ぶりで、職員たちが休む暇もないとぼやいていた。
 もっとも、日本人と違ってイタリア人があくせく働いているのを見たことがない。怠け者とまでは言わないが、必要以上の働きはしないのだ。
 まだそんなに遅い時間でもないはずなのに、すでに外は真っ暗になっている。
 小降りだった雨が激しさを増してきたのだ。
 同僚たちは、すでに帰ってしまっているかもしれない。
 遠くで雷鳴が聞こえて、鞠乃は竦みあがる。
 雷はずっと昔から苦手だった。
 いい年して、そんなものが怖いのだとは決して人には言えない。
 言えないが怖いものは怖い。
 盲目の画家が描いたという壁画。痩せ細ったキリストの像。そしてステファヌスの首。
 それらを見ないようにして、鞠乃は床だけに視線を落として前に進んでいた。
 時折、すれ違う司祭やスイス衛兵が珍しそうに振り返る。
 こんなヴァチカン宮殿の奥深くまで、日本人がひとりで入ることは珍しいのだろう。
 稀に熱心な信者が招かれることもあるが、そんな時はたいてい司祭がそばについている。
 短波ラジオの日本語放送課の手伝いをしているだけの一般職員の鞠乃が、どうしてこんなカトリック教徒の聖域であるヴァチカンの最奥まで入ることを許されるようになったのか。
 実のところ鞠乃自身にもよく判っていなかった。

 下ばかり見ていたせいで、すぐ前方にいたらしい助祭の姿に気づかなかった。
 黒いキャソック(聖職者の平服)に思いっきり頭をぶつけて、慌てて後ろに下がった。
 足がもつれてよろめきかけた鞠乃の手を、大きな逞しい腕がとらえる。
 一瞬、呼吸が止まり、無様なほどに体が跳ね上がった。

「大丈夫ですか」
 その低い声に心臓を鷲づかみにされたような気がして、足がすくんだ。
 返事をすることさえできずに、動けなくなっていた。
 眼の前には赤褐色の髪に縁取られた秀麗な面差しがある。

「す、す、すいません……コンスタンティヌス先生」
 口ごもりながら、助祭に詫びた。学校では呼びなれた敬称だった。
 もうとっくに卒業したというのに、鞠乃はついそう言ってしまう。
 鞠乃の通うカトリック系の学校に、彼は臨時講師として赴任したことがあったからだ。
「ぶつかっただけですか。ずいぶんと赤い顔をしている」
 慌てて彼から眼を逸らす。
 見つめられているだけで、胸が詰まって切ない気持ちになってしまう。

 凄まじい雷鳴が響く。かなり近い。
 素っ頓狂な悲鳴を上げて、鞠乃は文字通りその場で飛び上がった。
「すいません」
 鞠乃は同じ言葉を繰り返した。
「雷……苦手ですか?」
 耳に沁みいるような低い声。
 微かな乳香の香りが鼻をかすめた。

「そ、そんなことありません……大丈夫です。もう帰るところですし」
 できるだけ平常を装って、鞠乃はかくかくと頷く。まるでロボットみたいにぎこちない動きだと自分でもわかる。
「雷がおさまってからのほうがいいんじゃありませんか」
「雷なんて、全然平気──うわっ!!!」
 平気だと言った瞬間、窓の外が光る。激しい稲光と轟音が低く響き、鞠乃は思わず耳を塞いでいた。
 なんてタイミングの悪さなのか。
 恥ずかしさに顔から火が出そうだ。
 鞠乃は耳に当てた手のやり場をどうしたものかと、そろそろと顔の横から放す。
 まともにコンスタンティヌスの顔が見られなくて、横目でちらりと伺うと、やはり彼はくすくすと笑っている。

「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。大きな音だったからちょっと、びっくりしただけです」
「そうですか」
 笑いを含んだコンスタンティヌスの声は、いつもより低くわずかに甘い。
 そう感じて、鞠乃は身のうちがいっそう熱くなるのを感じた。
 軽く屈んでコンスタンティヌスは、鞠乃の耳元に囁いた。

「どうもわたしは、雷よりも嫌われているようですね」
 コンスタンティヌスの言葉に、思わず鞠乃は声をあげた。
「ち、違……!」
 声がかすれた。
 はっきりと震えているのが、すぐコンスタンティヌスに伝わってしまう。
 穏やかな低い声に、思考をかき乱される。
 目の奥がじんじんと熱くなった。
「そんなこと思ってない……です」
 鞠乃はうつむきながら、消え入りそうな声で言う。
「でも、貴女はわたしを避けているようですから」
 どうしてこの神父は、これほどまでに自分を追い詰めるのだろう。
 鞠乃は泣きたくなった。
 一目見た時から美しい人だと思った。
 誰よりも何よりも奇麗だと、まるで貴重な美術品を見るように、鞠乃は彼を見ていたはずだった。


 人の外見に、それも神父の美醜に惑わされるのはよくないことだ。
 鞠乃は爪を噛んだ。
 子供のころからの癖で、感情の高ぶりを抑え込もうとすると、ついやってしまう。
 その手をコンスタンティヌスは捕らえ、鞠乃は両手を押さえ込まれる。
「そんな……ことあるはず……ありません」
 押し殺した声で繰り返した。
 泣きたい気持ちを必死でこらえる。
 眼の奥が熱くなり、自分の意思とは裏腹に唇がわなないて、これ以上は声にならない。
 ふいにコンスタンティヌスの手が鞠乃の手から離れた。

 鞠乃には恋人というような相手も、憧れを抱く対象も今までいなかった。
 そんな虚ろな心に、入り込んだのは触れることさえできないほど、気高い聖職者となったコンスタンティヌスだ。
 どんなことをしても、この恋は叶うことはないだろう。
 初めての恋が、そんなにまで遠いところにあることが鞠乃は哀しかった。

 こんな想いなど、誰にも見つからないうちに埋めてしまいたい。
 ともに過ごした時間はほんのわずかだったのに、鞠乃は彼のことを忘れることができなくなった。

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