悪魔の契約




 もうずいぶんと前のことだけど、友達の家で一晩中アニメを観て泣いたことがあった。
 タイトルはフランダースの犬。
 おじいさんとともに牛乳運びをしながら細々と暮らす少年ネロと愛犬パトラッシュの物語なのだが、いきなり、おじいさんは死んでしまうし、取り残されたネロには、さらなる不幸が怒涛のごとく次から、次へと襲うのだ。
 しょせんは、子供向けのアニメ……ラストは必ず幸せになるであろうとの予想は見事に裏切られた。放火犯の濡れ衣、祖父の死。これ本当に子供向けなのか? 途中で見るのを止めようと思いながら、ラストシーンのあまりのやるせなさなに号泣した。



 そのパトラッシュがなぜか、あたしの顔を舐め回している。
 あの物語の主人公の愛犬パトラッシュは、かなりの大型犬だった。
 ざらざらとした舌が、顔から耳へ咽喉もとへと移動するので、あまりのくすぐったさに笑ってしまう。
 不思議と犬特有の獣臭さはなく、仄かにお香の匂いに、花の香りが混ざっている。
 なぜかパトラッシュは胸を執拗に舐める。
 舐めるというより、乳離れしない仔犬のように吸っている。
 いや、仔犬にしてはずいぶんと、しつこくいやらしい。ねぶるといった表現が正しいかもしれない。
 なんだ。このエロい犬は……。
 あたしは犬の頭を掴んで引き離そうとしたが、手に絡まる固い毛の感触が心地よく、ついそのまま撫でてやった。
 犬の毛にしてはずいぶんと長く、しっとりとしていい匂いがする。
 頭はまだ、はっきりとは覚醒しておらず、ぼんやりとした視界に、漆黒の毛並みが見えた。
 その毛をそうっと撫でていると、ふいに犬は顔を上げる。
 犬のくせにものすごい美形だ。
 くっきりと切れ上がったきつい眼。
 金色の双眸に見つめられると、魂が吸い取られそう。
 その薄い唇から、あえかな吐息がもれた。

「ようやく目覚めたのか……」
 犬は人語を解した。
 低い静かな声で囁く。
 耳をくすぐるような甘い声……あまりにも蠱惑的であたしは眩暈がしそうになる。
 犬なんかじゃない。
 もっと、得体の知れない……妖しい獣がそこにいる。
 あろうことかそれは、どんどん下へと降りてゆき脇腹をくすぐるように舐め、臍をつついた後、足の付け根にまで舌を這わす。
 くすぐったさに笑ってしまいそうになるのを堪えていたが、それどころではない。
 仕方がない。身体を起こすのもちょっとだるかったが、それをたしなめた。
「だめよ」
「いやじゃ」
 それはひどく冷静に言い放った。
 いや……って、拒絶されるとは思わなかった。
 なんとなく、自分の言いなりになってくれるような気がしたのだ。
 軽い失望。

「だめだって、言ってるじゃない。パトラッシュ!」
 そう怒鳴ったとたん、体が後ろに倒れた。
 後頭部をぶつけるかと思ったが、意外に後ろはふかふかと柔らかい。
 自分が押し倒されたのが、布団の上だと気づくのに、時間がかかった。
 腰のあたりで布の引き裂く音がして、にわかに恐怖心が湧き起こる。
 何をされたのか、動きの鈍くなった頭では理解できなかった。妙に下半身がすうすうする。
 夢中で手足を暴れさせて抵抗するが、それをあっさりと封じ込められてしまう。
 必死で閉じようとする両膝をこじ開けられ、鼠蹊部から中央へとざらつく舌が這う。
 やっぱりこいつはケダモノだ。
 あたしは油断すると、呑み込まれそうになるのを必死で踏み止めようと自分を言い聞かせる。
 ここで引き下がったら、後はないのだ。
 そんな追い詰められた気分があった。
 ぞっとして、身を捩じらせ、なんとか舌から逃れようとした。
 もっとも敏感な部分を舌先でこじ開けられる。……怖い。
 あまりにも直接的な刺激が、強烈すぎる。さっき引き裂かれたのが自分の下着だったのだとようやく気づく。
 このまま犬に喰われてたまるか!

「いやよ。止めて、パトラッシュ。やだってば」
「誰がパトラッシュか。わしだ!」
 わし……アスタロト……?
「そう、そなたのアスタロトじゃ」
 犬では、なかったらしい。
 低い声は不思議と優しくなったような気がする。
「あたしの……?」
「そうじゃ。わしは、そなたのものじゃ」
 狂おしげに囁く言葉にあたしは、不思議な気分を味わう。
「そなたは、わしの主である限り、わしはそなただけのものじゃ」
「なんで?」
「わしが、そなたを愛しく思うゆえにな」
「よくそんな恥ずかしいこと言うわ」
 言った後で、今の自分の格好のほうがよっぽど恥ずかしいんじゃないかと思う。
 妙に冷静な自分が、馬鹿みたいだ。
 悪魔が愛を囁くのと、どっちが馬鹿なんだろうか。
 しかし、その声は胸が詰まりそうなほどに切なげで哀れっぽかった。
「なぜ、そう思う?」
 うっすらと眼を開けると、驚くほど間近に黒髪に縁取られた秀麗な顔があった。
 その顔は今にも泣きそうに眉に皴をよせて、猫のような金の眸が潤んでいる。
 いや。猫などではない。
 黄金に輝く双眸は、かつて見た地獄の火焔のようだ。燃え盛る焔は、熱く恐ろしいほどに奇麗だった。
 その眼に魅入られたら決して逃れることはできない。

「わしがそなたを愛しいと思うのは、不思議であろうか」
 アスタロトは、あたしの上を滑り四肢に絡みつく。
 金縛りのように体は動かず、唯一動かせる眼だけを見開くと、切なげな悪魔の顔が近々とあった。
 悪魔でもこんな表情をするのか。
 それとも、これこそ人間を誑かすための演技なのか。
「何ゆえか解せぬ」
 頬を寄せアスタロトは、あたしの唇に触れる。
 胸の奥から込み上げる何かがあった。
 それが何かは、あたしにだって判らない。
「ひとつ確かなことは、そなたに縛られたということじゃ。まるで契約のようにな」
 契約って……まさか、魂獲られるとか……あれか?
 今さらながら、あたしはあせった。
 いくら仏教徒でも、悪魔に魂を売り渡そうなんて思わない。
「やだ。放して……!」
「わしからも、そなたに訊こう。何ゆえ、わしを厭うのか」
 そりゃ、あんたが悪魔だから……と答えかけて、思わず口ごもった。
 悪魔というのは、人間が勝手にそう祀り上げただけのことだ。
 今、目の前にいる悪魔が自分でそう言っていた。
 嘘か真実かはともかく。男でも女でもなく、神であり悪魔でもある奇妙な存在は、確かにそこにいる。
 これだけは、紛れもない現実だ。
「先ほど申したはずじゃ、そなたこそ主じゃ。わしの持ちうるすべては、そなたのものじゃ」
 あたしの身体を抱きしめながら、苦しげにかき口説くその言葉が、本心かどうかは判らない。

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