悪魔と神と人の子




 アスタロトは、夜に訪ねてくる。
 あたしは缶ビールのタブに、指先を差し込んで押し開く。
 ぷしゅっと軽い音がして、泡立つビールを口元に運ぶ。少し零れたか。
 もともと、ビールやアルコールの類は好きではない。
 だが、彼に子供のようだと言われたのが悔しくって、甘いものは控えるようになった。
 アルコールには習慣性があるのか、とくに美味しいとも思わないのに、ついつい手がでる。
 必ず来てくれると判っているのに、たまらなく不安になるのだ。
 とくに、こんなに蒼い月の夜には……。

「子供のくせに酒など呑むでない」
「誰が、子供だっていうのよ。立派に成人してるわよ」
「ならばよい。こちらへ来い」
「いやよ。“子供”に変なことするから」
「たった今、子供ではないと申したくせに」
「あんたに比べたら、子供だって気がしたの」
「しなければ、そなたが寂しがるであろ?」
「馬鹿……」
 言いながらあたしは、またビールを口に運ぶ。
 なんとなく落ち着くような、おおらかな気分になる。
 どうしてだろう。
 アルコールの効果なのか、ただ単に精神的な充足感なのだろうか。

「愛している……」
 簡単に彼は口にするが、その言葉に真実はあるのだろうか。
 現世に住まうあたしと、地獄の支配者の一人である魔神につりあいなどとれるはずもない。
 男であり女でもある奇妙な悪魔。
 アスタロトがあたしのもとへ来るのはいつも夜。
 夢のように儚い逢瀬に、あたしは不安になる。
 彼は、あるいは彼女は本当に現実にいるのだろうか。

 公爵は人ではない。
 その事実が、時折あたしを打ちのめす。
 だから、アルコールの缶に手が伸びてしまう。
 少し苦い。
 けっして美味しいとは思わない。お酒に逃げてしまう。
 馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿……。
 夜風に吹かれて風鈴が涼やかな音をたてる。
 縁側であたしは、二本目のビールを飲み干す。
 頭がくらくらする……でも、止められない。
 この馬鹿のせいだ。

「……もう止めよ」
「うるさい!」
「わしの言うことがきけぬか」
 うるさい、うるさい……そんな声聞きたくない。
 なんでそんなに色っぽい声なの、あんたって、
 氷の張った桶に入れた本日三本目の缶ビールに手を伸ばす。
 ここは人の世で、あたしは明日も仕事があって……だから、二日酔いなんてしている場合じゃないわけで……。

「代謝能力以上にエタノールを摂取するのではないぞ」
 そう言いながら、アスタロトは缶ビールを取り上げた。
 中味の残っている缶を握りつぶす。
 ビールの炭酸泡が吹きこぼれた。
 あたしは慌てて布巾でぬれた手をふいてやろうとしたが、まるで手品のように潰した缶も手も、すでに濡れてはいなかった。
 いや、手品ではなく悪魔の仕業なのだから、やはり魔法とかいうものだろうか。
 小さい頃に絵本で読んだ魔法とはずいぶん違う。
 呪文を唱えるわけでも、杖を振るわけでもない。ごく自然にそれは行われるのだろう。人と魔は同じ場所にいられない所以かもしれない。
「雌性ホルモンがアルコール代謝を阻害するのじゃ」
 悪魔にしては健全なことを言う。
「女性のほうがアルコール依存症なりやすいってことでしょ。そんなこと知ってるわよ」
「ならば、なぜ止めぬ」

 あんたのせいだわ。
 悪魔のくせに、飲酒を止めろだなんて、なんか変よ。

「あんただって、半分、女じゃないの」
「男がよいか?」
「どっちでも意味ないわ。あんたは悪魔だもの」
「もとから悪魔であったわけではない。バビロニアではイシュタルという女神であった」
「いつから、アスタロトになったの」
 女神が悪魔に変わるなどとあるのか。
 不振に思いながらも、あたしはつりこまれたように、彼あるいは彼女の話を聞いた。
「パレスチナに渡り今の名になり、ギリシャではアフロディーテと呼ぶものもあった。やがて時代が下るにつれ、わしの存在は野蛮で淫乱な存在とされたようじゃ」
「もしかして、キリスト教があんたを神の座から悪魔に堕としたの」
「この世のすべての宗教とはそのようなものじゃ。虚構に満ちておる」
「……すべて?」
「わしには大事無いことじゃ」
「何言ってんの。人のいうことで性別まで変わるなんて……めちゃくちゃだわ」
「わしが変わったのは、そなたゆえじゃ。そなたが好むなら、どちらでもなろうほどに」
「なんで、あたしにこだわるのよ」
「そなたが恋しいゆえに」
「悪魔が人を恋しがるなんて、変よ。悪魔って人間を堕落させるんでしょ」
「そう言い出したのは、誰じゃ。わしではない。勝手な人の思い込みか、あるいは恐れが生み出した妄想であろうな」
 うまく言いくるめられているような気がして、あたしは返事ができなかった。
 身をのりだすようにしてアスタロトは、正面からあたしを見つめる。
 近々と見据えられて、視線を逸らそうとしたがうまくできない。
 漆黒の双眸に、あたし自身が映りこむ。

「それがあの地獄を創り出すのじゃ。判るか。人はその思い通りの世界を創る。それがあの世界であり、わしでもある」
「あたしはあんたを作ったつもりはないわ」
「そうであろうな。だが、わしはここにいる。ここにいて、そなたを恋しいと思う。それがなにゆえなのか。わしには判らぬ」
 アスタロトはゆっくりとあたしの前にかぶさってきた。
 ごく自然な行動で、まるでそのことが当たり前のような気がして、あたしは抵抗する気をなくしていた。

「ひっくっ!」
 唐突にしゃっくりがでて、あたしは口をおさえた。
 炭酸がいけなかったのか。
 笑いもせずに、アスタロトは真面目な顔をして言った。
「そら、言わぬことではない。アルコールで脳が萎縮することもあるのじゃ」
「それがどうしたの、あたしの脳がなくなったら、朝までここにいてくれるの?」
「望みなら、どのようなことでも叶えてやる」
「嘘よ。朝までいられるはずがないわ」
 頭の中がぐるぐると回っているような気がする。
 急性アルコール中毒というやつだろうか。
 まさか本当にアルコールによる脳萎縮なんて……。
 あたしは、這うようにしてアスタロトから離れた。
 ビールのせいじゃない。
 蚊遣りの豚の口から、揺れる細い線香の煙よりも、もっと深くあたしの鼻腔にしみこんでくるミルラの香り。
 麝香を思わせるような甘く重い香り。
「こちらへこよ」
「いやよ」
「わがままな女じゃ」

 じれたようにアスタロトは、あたしの手をひっぱる。
 押し返してやろうとしたが、重心を崩してあたしはアスタロトの広い胸に抱き取られる。
 甲冑のない胸に顔を押し付けて、目を瞑った。
「嫌いよ。アスタロトなんか……」
「そなたが嘘つきなのは、知っている」
 嫌い嫌い……でも好き。
 あたしはこいつのことなんか何も知らないはずなのに、どうしてこんなに惹きつけられるのかしら。

「わしは愛してる。そなたが好きだ」
 木製の甘い香りにあたしは泣きたくなる。
 大きな手があたしを包み込む。
 どうして彼女の体は、こうもあたしにぴったりと沿うのだろう。
 もとは一つだったものが、引き合うように、
「あたしは愛してない!」
 精一杯の虚勢だ。
 だけど、このままアスタロトに溺れたくなんかない。
 あたしが欲しいのは確かな、この手につかめる愛だ。
 なのに、まるで濃い霧の中に包むように、アスタロトはあたしを惑わせる。

「そなたを浚ってゆけるものならば、この腕に閉じ込めてどこにもやらぬのに……」
 乱暴にあたしを顎をつかんで、無理やりにくちづける。
 柔らかな舌があたしを絡めとり、啜った。
 キスだけで息が荒くなってしまいそうになって、気がつく。
 またアスタロトの手が、あらぬところをまさぐっている。
 すかさず、あたしは立ち上がりざまローキックをかましてやった。
 残念ながら急所は外したが、アスタロトは顔をしかめて、あたしを軽く睨む。
 おかしなことに、悪魔も男の姿をしている時には、人間と同じ場所が急所になるらしい。

「地獄の公爵に蹴りを入れる女はそなただけじゃ」
 無視してあたしは、歩き出す。
 つくづく場所を考えない男だ。
 ここは縁側なのだ。
 外から見られたらどうするつもりなのだろう。
「まったく……そなたはツンデレじゃなくて、ツンツンだ」
 本気で言っているらしいアスタロトの言葉に、あたしは吹き出した。
 馬鹿だ。
 正真正銘の馬鹿だわ。
 縦にも横にも大きな男が、あたしなんかに振り回されてる。
 黒髪に縁取られた秀麗な美貌が、むくれているのが、なんとも可愛く思えてしまう。
“ツンデレ”というのは、最近あたしがアスタロトに教えた言葉だ。
 まさか、自分のことを言われるなんて思ってもみなかったけど……。
「あたしは、あんたのものになんかならないわ」
「なるほど」

 あたしは、部屋の奥へ向かった。
 長押から蚊帳がつってあり、あたしはすばやく潜り込み、後ろからついてくるアスタロトをちらりと見た。
 どうしたものか……少し迷ったが、彼の肩をつかんでそのまま体重をかけ押し倒すようにして引きずり込む。
 蚊帳への入り方もコツがあるのだ。
 腰を低くしてから急いで潜り込まなければ、虫も入ってしまう。
 二人して広い蚊帳の中へ転がり込むと、今度はあたしからくちづけした。
 彼がいるだけで、あたりは穏やかな香りが広がっていく。
 冷たい感触が大腿に触れて、あたしはあわてて振り返った。
 見ると蛇がアスタロトの袖から、身体をくねらせるようにして這って行く。
「では、わしがそなたのものになるか。どうせ、そなたに飼われる身じゃ」



 いつかは、あたしも彼の爪に引き裂かれてしまうのか……でも、今はおとなしく従順な態度を見せて、鋭い爪を隠しているのはなぜだろう。
 あたしへの愛情ゆえか、それとも別の何かか。
 それでも、今はいいと思う。

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