「なぜ……神は許しては下さらないの。あたしも死んだらここへ来るの?」
「我が主は罰する神じゃ。愛ではなく畏怖をもって人を導く。ここへ来るのはそれを望んだ者だけじゃ」
 アスタロトの黒曜石のような双眸が、地獄の炎で炙られて底から輝くようだった。
 なんて美しいのだろう。
 この異常な状況において、あたしの感覚はひどくずれていた。
 魔性の美しさというのは、やはり地獄の中にあってこそ際立つのではないだろうか。

 その眸の色に心を奪われた瞬間、あたしはアスタロトにくちづけをされた。
 まるでついばむように。
 唇にそうされたのは、初めてのことだった。
 彼女は必要以上のスキンシップをしたり、あたしをからかうように額や手の甲にくちづけしたりしたことはあっても、唇だけにはしたことがない。
 つまり、一線を越えてしまったということだろうか。
 だが、例え公爵が悪魔であったとしてもあたしは、そっちの趣味はない……はずなのだが……。
 これは、もしかしたらストックホルム症候群とかいうものか?
 恐怖で支配された心理状態における人間の自己欺瞞。
 この恐るべき地獄の中で、今のあたしが頼れるのは、公爵だけしかいないのだ。
 遠くで地獄の業火で焼かれる亡者の悲鳴が聞こえた。あたしはなおもアスタロトの漆黒の鎧にしがみつく。
 硬く暖かい感触。
 鎧だと思ってつかんだのは、公爵の胸だった。
 いつもはふっくらとして、柔らかく弾力のある丸い二つの胸がやたらと硬くごつごつして扁平だった。
 鎧や鎖帷子などではない。
 男の胸だ。

 ――どういうこと……?

 頭の中が、疑問符で埋め尽くされる。
 もしかしたら、これは公爵ではないのではないか。
 不安にかられて離れようとしたがたくましい腕は、あたしを放そうとはしなかった。
 優しいくちづけは、不意に強引で乱暴なものに変わった。
 あたしの唇を割るように、熱い舌が滑り込んでくる。
 思い切って口を開き、相手の舌に噛み付いてやろうとした。
 男は舌をひっこめ、ゆっくりと唇を放した。
 相手の胸に腕をつっぱって、少しでも離れようともがく。
 だが、あたしより頭ひとつ大きなその男は、よく見知った顔で……。

「すまぬ。そなたは“女”のほうがよいかと思ったのじゃが、つい」
 つい……なんだと言うのか。
 これはどういう状態なんだ。
 言いたいことは山のようだが今のあたしは、言葉を発することすらできないでいる。
 鼻がぶつかりそうなほど近くに、見知らぬ美しい男の顔。
 でも、それは同時にあたしのよく知っている美女の顔でもあった。
 やや面長で、少しばかり頬がそげたようだ。
 彫りの深いはっきりとした顔立ちは、性別が入れ替わろうとそのままだった。
 いや、女の姿をしていた時よりもいっそう艶やかな色香と甘さがある。

「……公爵? 本当にアスタロトなの」
 あたしは、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせていたに違いない。
 開きっぱなしの口が閉じられなかった。
 男も女も超越したような艶やかな美貌を前にあたしは、息を呑むしかない。
「そうだ。“そなたのアスタロト”じゃ」
 …………。
“あたしのもの”なわけなのね。
 ツッコミどころだと思ったが、完全に毒気を抜かれた。

「そなたを怯えさせたくはなかったが、つい我慢ができなくてな」
「へ、へ、へへへへ……へ、平気よ」
 不自然なくらいどもりながら、あたしは答えた。
 口で言っていることと、内心は裏腹だ。
 じつのところ、まったく平気ではない。頭の中は収集がつかないほど混乱している。
 これで、こいつがニューハーフでしたとかいうオチなら、まだ判りやすかったかもしれない。
 いきなり目の前で、女の身体から男のものに変わったのだ。
 当節、流行の“男の”というやつか。いや違うな。まったく違うぞ。
 今、いちばんあたしがうろたえているのは、そんなことではない。

「ちょっと驚いただけだわ」
 そうよ。なんてことないわ。
 キスくらい、どうってことないわよ。そんなもんでいちいち、どうこういうほど初心じゃないわよ。
「ならばよい」
 よい……って、ずいぶん勝手じゃない。
 そう言ってやりたかったのだが、こちらが口を開く前に、また唇が押し付けられる。
 冷たい唇。熱い舌と唾液が絡まる。
 まるで媚薬のようなくちづけ。
 全身が焼けるような熱さを感じた。
 不安と恐ろしさに震えるあたしを、なだめるように舌は蠢く。それは、まるで蛇のようでいっそう蕩けさせる。
 なんて、キスをするんだろう。
 油断すると足の力が抜けそうだった。
 大人のキスというやつか? いや。まさしく悪魔のキスだ。
 唇が離れる時、思わず彼の舌を追ってしまった。
 それが堪らなく恥ずかしい。
 それを見てアスタロトは、耳に息を吹き込むように囁く。

「そなたの唇は、甘い味がする……。いつまでも菓子をほおばる子供じゃな。口寂しければ、わしが慰めてやる」
 片手であたしの腰を支え、もう片方の手は胸に触れた。
 いや、触れるなどというものではない。公爵の手は、はっきりと愛撫している。
 すでに足ががくがくと震えているあたしは、それだけで立っていられなくなりそうだ。
 やがて、その手がゆっくりと服の下へ潜ろうとしている。
 もう、それもいいか……とあたしは、心の底で思っていた。
 血の臭いに酔ったのかもしれない。
 身体の芯が疼くような、そんな生々しい感覚。
 もっとさっきのキスをしてもらえたら、あたしの知らない愉楽があるのかもしれない。
 女だった時とは違うアスタロトの手。
 触れられているだけで、たまらない。もっと深くまで触って欲しい。
 うっとりと、彼の手に身をゆだねかけた時、わたしは我に返った。
 彼の背後に、地獄の蠢く大勢の亡者が見えたからだ。

「何やってんのよ。馬鹿っ!!!!!」
 考える前に手が出ていた。
 あたしは、アスタロトに平手をかましていたのだ。
 自分のしたことにもびっくりしたが、殴られたアスタロトのほうは瞠目している。
 心底驚いたのだろう。
 サドっけのある男ほど打たれ弱いという。
 まさにアスタロトがそのタイプなのか。
 張り飛ばした手がじんじんと、熱くなって痛い。
 よけもせず、殴られた頬を押さえたままアスタロトは、あたしを見下ろしている。
 ストックホルム症候群なら、解放されたときに今の好意は憎悪に変わるそうだ。
 恐ろしげな甲冑と黒衣をまとった美しい男は、まるで捨てられた仔犬のように情けない顔をしていた。



 ……いや、仔悪魔というべきか?

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