アスタロト。
 地獄の大公爵。
 それは配下の魔王たちにそう呼ばれていた。
 魔王たちは、アスタロトとは違って確かにそれらしい容貌をしている。
 側近だというサルガタナスは羊の頭部に、身体は人間の男だ。
 羊の口が開いて普通に日本語を話すのがいかにも不思議だった。
 まるでSFX映画やファンタジー系のゲームなどでお馴染みのクリーチャーだ。作り物が喋っているかのようだが、妙に生々しく口は動く。
 どういう発声をしているのか。動物なら、人間と同じ声帯をもつはずもない。
 重そうなねじれた角を蠢かす。ひどくそれが不気味に見えて、あたしはアスタロトの黒衣に隠れた。
 怯えて震え上がるあたしを見ると、公爵はやけに喜ぶ。
 それが悔しいのだが、どうしようもない。この時ばかりは、彼女の豊満な身体にしがみつくしかないのだ。とりあえず相手も女だからいいのか。

 また別の悪魔ネビロスは四つの耳と四つの目を持ち、顔の半分ほどを髭で覆われている。
 黒々とした髭の中には真っ赤な口があり、そこからは炎が噴き出す。
 その炎には熱さは感じないものの、恐ろしくあたしは膝ががくがくと笑ってしまうのが止められなかった。
 まともに立っていることさえできない。
 踏みしめる大地の感覚すら危うい。
 ぐっしょりとした苔を踏んでいるようでもあり、時おり乾いた枝を踏みしだくようでもあった。
 よく見れば、それは獣の骨で、それらはもろく簡単に崩れる。
 時おり、足をとられてつまずきそうになるのは、丸い人の頭蓋骨だった。
 あたしは恐ろしさに公爵にしがみつきながら悲鳴をあげ続けるしかない。
 喉が嗄れるほど叫び、それでも恐怖は大きくなるばかりで、眩暈がしそうだった。
 いっそ気絶でもできれば、楽になっただろう。
 今、あたしのいる世界のほかにも死後の世界というものがあるのだとアスタロトは言う。
 キリスト教徒や仏教徒でなくても、そんなことは小さいころから聞かされる。

 ――悪いことをしたら地獄に堕ちるよ。

 そんなこと本気になど、したことはなかった。
 しかし、あたしが連れていかれたのは、まるでダンテの神曲のような世界だった。
 煮えたぎる血で真っ赤な川の岸におぼれる人がいる。
 ずっと昔に聞いた血の池地獄というのは本当にあるのだ。
 まるで、牛の枝肉のように吊るされながら、血の中に落とされていく。ひどく血腥い。
 現実のこととも思えないのに、妙に感覚だけが研ぎ澄まされる。

 あれは、生身の人ではなく魂魄だと公爵が言う。
 生前の姿を魂は覚えていて、そのままの形で現れる。この世界にいるのは、皆、地獄に囚われた咎人たちなのだそうだ。
 火の雨が降る中で皮膚を焼かれながら、逃げ惑う者もいた。
 自らの肢体をむさぼる者……。
 魂魄となったその身に現世であったのと同じ肉と血と骨を持ち、彼らは自分の腕を噛み千切り、その痛みに泣き叫びながら、なおも喰い続ける。

 鼻がもげそうなほどの悪臭を放つ排泄物の中にのたうつ者。
 そこは悪の嚢マレボルジャと呼ばれていた。
 黒いタールのような粘つく液体が、やはり人の魂とともに煮られている。邪悪の尾マラコーダという悪魔があたしに向かって何か言ったが、よく聞き取れなかった。
 おそらくは何か下卑た冗談だったのかもしれない。醜い悪魔は悦に入ったように笑い転げている。
 それを不愉快に思うほど、あたしのほうには余裕はなかったが、公爵のほうが先に反応した。
 アスタロトが、右手を挙げて指を鳴らす。
 どうやら、それはマラコーダに罰を与える合図だったらしい。

 その権限が大公爵にはあるらしい。
 地獄を取り仕切るのは閻魔大王だと思っていたが、それは東洋の話だけなのか。
 確か、神曲では冥府の裁判官ミーノスが死者の行くべき地獄を割り当てている。
 公爵が何をしたのかは判らない。
 アスタロトは、あたしを連れてその場を立ち去ったからだ。
 ただマラコーダが、慌てふためいて煮炊きのための大きな匙を投げ捨てて、その場にひれ伏しているのが視界の隅に見えた。
 あたしが認識したのはそこまでで、後に引き裂くような物音と同時に甲高い悲鳴が聞こえた。
 振り返ろうとするのを、公爵は強い力で抱き寄せられて顔を彼女の柔らかな胸にぶつける。
 いつもなら文句のひとつも言ってやるところだが、今はそれどころではない。
 奇妙なびちゃびちゃという水音と、固いものを砕くような物音が聞こえてくる。その間もひっきりなしに悲鳴が聞こえた。
 恐ろしさにひたすら耳を塞ぐのに、どうしても聞こえてしまう。
 あれは何。そう訊ねたいのに、言葉は咽喉の奥に張り付いて声にならない。

 悪魔にも心臓はあるのだろうか。その豊かな二つの胸の間から規則正しい鼓動が聞こえる。
 その音を聞いていると不思議な安心感があって、あたしはそのまま彼女の胸に顔をうずめてしまう。
 断末魔のような悲鳴は、いつまでも耳に残った。

 聖金曜日の夜に詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐったダンテのように、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。
 薄い闇の世界で、亡者たちの怨嗟の声が響き渡り、あたしはあまりの恐怖に泣きながらアスタロトにしがみついた。
 だがそれは、地獄のほんのとば口にすぎない。
 彼女は笑って言うのだ。



 亡者どもは望んで、ここへ来た。
 生前の罪を誰かに罰して欲しいがために……。
 いわばここは、人々の楽園。
 己の贖罪をここでなくして、どこでできるというのか。

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