巨大なオーク材の扉は、重厚な彫刻が施されている。
 両扉の片方を押し開くと、薄暗い闇と顔の映りそうなほど磨きこまれた長い廊下があった。
 男子校の寮だからもっと雑然としたものをイメージしていたのだが、中は埃ひとつ落ちていない。
 まるで旅館みたいにきちんと並べられたスリッパの一つを拝借して、わたしは織部くんに連れられて中に入った。脱いだ靴は織部くんの下足箱へしまってもらう。
 入ってすぐのところに公衆電話がある。ダイヤル式のレトロな造りのものだ。
 足早に先を進む織部くんについて、長い廊下を歩くときゅっきゅっと音がする。
 大きな建物なのに、人の気配が感じられない。間接照明は、薄暗いので足元を照らすほどにしか用をなさない。
 怖くなって、織部くんの服の裾を握ると、そっと肩を抱いてくれた。
「今は飯時だから、皆、食堂に行っているんだ。戻ってくる前に俺の部屋に急ごう」

 寮長の部屋は、入口近くにあるそうだが、この異空間のような寮内ではとても遠くに感じた。
 鍵のある部屋というのも、寮長の特権らしい。
 普通は鍵もないそうだから、プライバシーもあったもんじゃない。
「他の部屋に比べたら、少しはましかもな」
 そう言いながら、織部くんは真鍮のドアノブを回した。










 一歩踏み込んで、驚いた。
 シンプル。質素。清貧。なんと表現していいものか。
 シングルベッドと机。クローゼット。書棚があるだけで、何もないのだ。
 見たことはないが、昔の修道院というものがこんな感じではないのだろうか。
 これで、ましだというなら他の部屋はいったいどうなっているのか。
 普通は建物の外観が古くても、内装だけは近代的になっているものだが、ここには当てはまらないようだ。
「何もなくて驚いただろう。適当にかけてくれ」
 座れと言われて、どこへ……。
 板張りの床はいかにも寒々しそうだったし、ベッドに腰をかけるのも気が引ける。とりあえず机の前にある一つきりの椅子に座った。
 机の上は、几帳面な彼らしくきちんと整理されている。出しっぱなしのペン一本、読みかけの広げた本もない。
 書棚の本も洋書が多い上に専門書の類もある。
 それにこれなんだろう。数学の本?
“フェルマーの最終定理”“ポアンカレ予想”ダメだ。目が拒絶反応してしまう。
 織部くん、自分は理系じゃないとか言ってなかったっけ?
 それなのに、こんな本読んでるの?
 高校生なら漫画とか読もうよ。“努力”“友情”“勝利”って少年漫画で覚えるもんでしょ。
 最近の漫画は、大人が読んでも面白いんだよ。
 本の種類はバラバラ。宗教の本もあるけど、宗派も統一性がない。
 ブッダの“ダンマパダ”があったり、“リグ・ヴェーダ”って何? バラモン教か。
 聖書のとなりに、ニーチェの“ツァラトゥストラ”……これって、「神は死んだ」とか言った人だよね。
 あ、判った。織部くん……意外と中二病だったりして。まだ高校生だもんね。

 岩波文庫か。夏目漱石に太宰治。なんかホッとするな。青空文庫なら無料で読めるよ。
 同じタイトルの本が三冊ある。“幸福論”か。著者が違う。アラン。ラッセル。ヒルティ……って、織部くん。どれだけ幸福を求めてたの?
 こっちは絵本だ。本当に統一感がないのね。この本棚。
“100万回生きたねこ”に“やさしいライオン”だ。わたしもこれ好き。
 それから“しろいうさぎとくろいうさぎ”
 何度も読んだなぁ……これって。
 そのわりに、図書館で子供の読み聞かせするときは、めちゃくちゃ緊張しちゃうんだけど。
 あ、この見覚えのある絵は“星の王子様”……って、フランス語か。日本語でいいじゃない。
 高三のくせに、それっぽい参考書とかもないよ。エスカレータ式だとしても参考書がないのはどういうことだ。必要ないとか? そんなハズないでしょ?
 いや、でも……あるいは、織部くんなら……そういうこともあるのかも?
 いや、いやいや、そんなことないでしょ?
 普通に勉強してるでしょ?
 だって、わたしなら高三のこの時期って、ピーピー言ってたのに……。まさか、わたしのせいで勉強に集中できないとか?
「心配しなくても、ここを卒業する見込みがあるから寮長をやってるんだ」
 前言撤回。まったく可愛げってものがない。この高校生。私の考えなど、お見通しらしい。
 どうせ、わたしには脳みそないのよ。

「どうした。変な顔して」
「…………なんでもない」
 わたしは、椅子の上で縮こまるようにして答えた。
「そこにある本は、俺のだけじゃない。前任の寮長のものも残っているし、知り合いが置いて行ったものもある」
 なんだ。だから、ジャンルがバラバラだったんだ。
「それじゃ、全部読んだわけじゃないのね?」
「いや、読んだ」
 ……嘘?
「“ギリシア悲劇全集”に、バートン版の“千夜一夜物語”“失われた時をもとめて”……長いものばっかりだよ」
「あまり外出することもないからな」
「………………」

 こんなに本を読んでいるくらいだから、わたしの仕事ぶりを見て文句を言うのも仕方ないのかもしれない。もっと勉強しよう……って、今さらだよ。
 だめだ。気分が落ち込んできた。
「そうか。それならこちらの話だ」
「何?」
「優衣はなぜ、あの店にいたんだ」
「は……?」
「なぜ、いたかと聞いている」
 ……終わってなかったのか。その話。





 織部くんの目がうっすらと細められた。
 やばい……。またしても、織部くんの背後で暴風雪ブリザードが吹きすさんでいる。
 気分は真冬の昭和基地だ。
 南極ではマイナス30度にもなると、吐いた息が凍るらしい。
「そ、そ、そそそそれは……」
 落ち着け自分。ここで弱気になるな。
 向こうだって、執事喫茶でバイトしていたんだ。お互いさまだろう。
 そうだ。南極の動物と植物は保護されている。
 確か、南極条約というルールの下で、南極は世界の国々が平和的に利用しているはずだ。
 負けるな、わたし。
「い、伊万里に誘われて、ちょっとお茶しに行った……だ、だけよ。な、な、何もおかしなことはないはずレしょ」
 ダメだ。呂律が回っていない。レレレのおじさんか。
「あそこが、ああいう店だと気づかずに入ったとでも?」
 織部くんの声のトーンが、いっそう低くなる。
 そんなにすごまなくったっていいのに。
 いつもの貴方もじゅうぶん怖いですから、迫力ありすぎですから。
 高校生に見えませんから、黙ってたら、ほぼ管理職ですから。
「き、きき、気がつきませんでした」
 まともに、織部くんの顔が見られない。
 ひたすら怖い。
 ブリザードに耐えるペンギンか、シロクマになったみたいだ。あ、シロクマって南極じゃなくて北極に住んでるんだっけ?
 オーロラの幻さえ見てくる。

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