「俺は……お前に優しくしてやれないし……俺は、お前から見たら……」
 一度、言葉を途切れさせてから、織部くんは手を放した。
 あれ。
 いつもの織部くんらしくないぞ?
 びっくりして、彼のほうを見た。目が合うと先に織部くんのほうが避ける。

 ――子供に見えるんだろうな。

 彼は、確かにそう言った。かすれた声は聴き取りにくいほど小さかったけど。
 眉間に皺を寄せているのは、見慣れたものだ。
 でも、言いにくそうに言葉を詰まらせて、何よりわたしを見上げているその表情が、どこか……。
 なんていうんだろう。
 今にも泣きそうに見えた。
 ここへきて、まさかのデレ?
 そんなはずないよね。

 嘘。嘘。なんの作戦?
 これって、いわゆるツンデレのデレの部分なの?
 またそうやって、わたしをからかってるわけ?
 そんな顔したって、動揺なんてしませんよ。

 織部くんが泣きそうになるなんてこと、あり得ない。
 わたしの冷静な部分がそう判断するのに、同時に胸がずきずきするほど、彼の顔が、声が切なげで。
 このまま抱きしめてあげたい気分になってくる。
 可愛いとか、いじらしいとか。
 まるで織部くんからは遠い言葉が、わたしの中でぐるぐる渦巻いていた。
 いつも自信満々で、俺様で、黙っていたらなんだか怒ってるみたいに無愛想なくせに。
 なんていうか、切なくて、きゅっと胸が締め付けられるみたい。

 もう、どうしよう……。



 椅子が派手な音をたてて、ひっくり返った。
 立ち上がったはずみで蹴倒したらしい。
 テーブルの脇でひざまずいたまま、わたしは織部くんの首に気がついたときには抱きついていたのだ。

 ……何やっているんだろう。
 頭の中では、冷静な自分が何やっているんだ。場所柄をわきまえろと叫んでいるのに、身体はまるで磁石みたいに張り付いたまま動かない。
 だけど、だけど……。

 彼があんまり、つらそうだったから。
 わたしは、自分の胸の中に織部くんを抱え込んでしまった。
 恋は首から下でしている。
 どんなに頭で考えても、感情を抑えこもうとしても、身体だけはいうことを聞いてくれない。
 とどのつまり。わたしは、この人がどうしようもなく大好きなのだ。

 しがみつくわたしの身体を受け止めて、織部くんは抱きしめてくれた。
 いつもの彼とは違うセクシャルな香りが、白いドレスシャツの袖口から微かに漂う。
 執事って、いい匂いがするんだな。と変な方向で感心したりして。
 いや、それどころじゃなかった。
「ご、ごめんなさい……ごめん……あたし……」
 今さらながら、周囲の目がいっせいにこちらを向いていることに気づいた。
「優衣?」
「ひ、人前なのに……こんなことしちゃって……あの……」
 わたしはあせって手を放そうとしたけど、織部くんは抱きしめる腕にいっそう力を込める。
 息が詰まって、ちょっと苦しい。
 固い胸と腕に抱きすくめられる。
 いや、ちょっとどころか、かなり苦しい。
 彼の腕は、まるで鋼のようで……なんて、いくら乙女モードのスイッチが入っていても、これは本気でつらい。
 気が遠くなりそうだ。

 織部くん、ギブ……ギブアップ。



「俺のほうだ」
 耳もとでそっと囁く声に、わたしは驚いて織部くんを見た。
 少し腕を緩めてくれたので、あわてて息をつく。
 うっすらと細められた眼に、まるで心をすくいとられるようだ。
 いつもは不機嫌そうなしかめっ面なのに、ときどきこうして、びっくりするほど優しい表情をする。
 思えば、あたしがいちばん最初に心惹かれたのは、この顔ではなかったのか。
 いつもの奇麗な彼の顔ではない。
 普段は見せない優しい笑顔。
 完璧すぎるほどのポーカーフェイスのせいで歳より老けて見える彼なんだけど、ちょっとだけ垣間見えるもうひとつの顔。

「俺が優衣を抱いているんだ。お前は被害者だ」
 まるで子供をなだめるように、あたしの頭を優しく撫でながら織部くんは言った。
 あれ。いつの間にか立場が逆転してる。
 この身長差のせい?
 なんか、気が付いたらいつも彼のほうが上なんですが。

「ひ、被害者って……そっちのほうが変よ」
「変か?」
 ちょっと笑いを堪えたような様子で、織部くんが答える。
 ああ、この顔も好き。
 でも、いつもの不機嫌そうな、世の苦悩を一身に背負ったみたいな顔も好き。
 結局のところ、わたしは織部くんのどんな表情も好きなんだけど……。
 本当にいろいろ好きで困る。やっぱり深刻な恋愛依存症かもしれない。心療内科に行くべきかしら。

「それじゃ、俺は変なんだな」
「べ、別に織部くんが変だなんて……」
 そういい終わらないうちに、織部くんの顔が近づいてきた。
「あ……ちょ、ちょっ……ぅんぐ」
 唇が触れる瞬間まで、しゃべっていたから変な声がでちゃった。
 恥ずかしいと思うより先に、唇は強く押し付けられて激しいくちづけに変わる。
 息もできないほど乱暴で、眩暈がするほど悩ましい官能的なキス。身体が痺れるようになってしまう。
 だめだって、わたし。
「愛している……優衣」
 かすれた声がわたしの耳に甘く響く。
 けれどその言葉は、唇の上で押しつぶされる。
 二度目のキスはいっそうの激しさをもって、わたしの心を蕩かしていった。

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