「な、なななななな、何……してる……の。織部くん!!!!」
 まるで酸欠寸前の金魚のように、ぱくぱくと口を動かしながら、ようやくそれだけ言った。
「ようやく、お気づきになりましたね。お嬢様」
 織部くんは、唇の端だけをきゅっと上げて笑った。
 何よ。その冷たい笑顔……怖い。本気で怖すぎるよ。
「そのわざとらしい敬語、止めてよ」
「優衣お嬢様は、“これ”がお好みではないのですか」
「……………………はい」
 うっかり返事をしてしまった。
 ヤバイと思ったときには、もう遅い。
 別に好みなんかじゃない。強く言われて、つい返事しただけなのだ。
 何も言えないでいると、織部くんは下から睨みつけてくる。
 織部くんの背後に暴風雪ブリザードが吹き荒れているみたいだ。
 今のわたしは南極の昭和基地にいる。



「なぜ、お嬢様がこんな場所にいらっしゃるのですか」
 声のトーンがいちだんと低くなる。
 ますます怖い。本気で怒ってるかもしれない。
 今のわたしの状況は、ちょうど会社の同僚に誘われて初めてきたキャバクラで、キャバ嬢になっている妻と遭遇した夫の立場なのか。
 わたしも悪いかもしれないけど、そっちだって執事喫茶でバイトしてるなんて聞いてない。わたしというものがありながら……とか言い返してやろうか。
「お、織部くんこそ……なんなの。そのかっこ……ぅ」
 強気に出ようとして失敗した。気がつくと語尾が小さくなっていく。
 妻の尻に敷かれた気の弱い夫の立場って、こんなものだろうか。



「わたくしのことはお構いなく」
 切って捨てるように、織部くんは言った。
 なんなの、なんでそっちの方が怒ってるの。これって逆ギレ?
 わたしが縮みあがるほど怯えているのを見て、ようやく織部くんは、表情を和らげてくれた。
 まっすぐに怖い顔をして睨んでいたのが、まるでにらめっこに負けたみたいにぷいっと横を向いて、笑ったのだ。
 うわっ。
 密かにわたしは、呻いた。
 笑ったよ。織部くん。国語の授業で“クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ”って出てきたときぐらい謎の笑いだよ。宮沢賢治もビックリだよ。
 でも、この笑いかたって、楽しそうというより苦笑いしているような微妙な感じ。
 かえって怖いよ。
 もう、泣きたい。
 本当に、お家に帰りたいです……。

 でも、泣いて済まされる状況ではなかった。



「わたくしという執事がありながら、なぜお嬢様はこんなところへいらしたのですか。わたくしでは満足できませんか」
 織部くんは、わざとらしい言い回しをした。
 こんな性格の悪い執事がいるものだろうか。
 膝を折りまっすぐに背中を伸ばして、こちらを見つめる姿は、執事というより騎士とか王子さまがお似合いだ。
 執事というか、小間使いは、わたしのほうです。ごめんなさい。

「わ、わたしは……友達に誘われただけで」
「友達に誘われたら、よその男に膝を触らせるのか」
 急にがらりと口調が変わった。
 その途端、体感気温が急激に下がっていく。南極通り越して、液体窒素に頭から突っ込まれたような気分だ。
 確実に瞬間凍結されてる。
 今ならバナナで釘が打てるかもしれない。
「そ、そ、そそそそ、そ、そんなこと……してないもん」
 こわばる口を無理やり動かす。自分でも笑えるくらいどもってしまう。
「嘘をつけ。備前にさせていただろうが」
「ごめんなさい……すんませんでした……」
 思わず、謝った。
 伊万里の言う調教の成果か。
 それともいつも職場で織部くんに怒られているから、すぐに謝るクセがついてしまっただけなのか。
 そもそもビゼンって誰?
 最近は図書館に来なくなったせいで、あまり叱られることもなかった。
 よく考えてみると、上司に注意されるより、ただの来館者である織部くんからのお小言のほうが多い。
 だからって、どうしてわたしが一方的に叱られているわけ。
 織部くんだって、こんなお店でバイトしてるなんて、これも立派な浮気になるんじゃないの。
 謝ってばかりではいけない。
 わたしは、敢然と……ではないけど少しだけ織部くんへの反論を試みた。

「べ、別に触らせてない。普通にナプキン置いてもらっただけで、そんなやましいことなんれ」
 噛んだ。
 言い直そうとしたけど、もはやわたしの気合いと根性は、擦り切れてしまった。
 織部くんは、ひざまずいているから自然と下からこちらを見上げる形になっているはずなのに、なぜだろう。見下げられてる気がするのは……。

 いきなり織部くんの手がわたしの膝頭に触れる。
 身体が跳ね上がるように反応してしまう。
 膝の上で円を描くように指先で撫でられた。
 それだけで産毛が総毛立つ。
 恐怖じゃない。もっと別の感覚。……何これ。
 ただ膝を触られているだけなのに。
 身体が、じんわりと熱くなってくる。

「どうした。やましいことはないんだろう」
「な、ななな……なぃ」
 かろうじて言えた。でも、説得力がなさすぎる。
 身体の震えがとまらない。ぞくぞくしているのに身体が顔がひどく火照る。
「ふっ……うぁ……あ」
 椅子の肘掛の部分をしっかりと握り締めて堪えていた。
 膝に彼の指先が触れているだけなのだ。
「備前が触ったときにも、こんなだったのか……お前」

 底冷えのするような声でなじられて、わたしは必死で首を横に振った。
 備前……特徴のある苗字を思い出した。彼の同級生だ。
 最初にどこかで会った気がしたのは、気のせいではなかったらしい。
 それじゃ、席へ案内してナプキンを置いてくれた執事は、備前くんだったのか。
 伊万里をトイレに連れて行ったのも、そうなの。
 何、ここ執事喫茶じゃなくて、男子校喫茶?
 それも超有名ミッション系進学校の生徒。なんだか豪勢だな。って違う。
 よそごとを考えて、少しでも気を紛らわそうとするけど、頭と身体の中がまるで別々になったみたい。
 織部くんの触れた部分から足の付け根にかけて、じんじんと熱が伝わっていく。
 何、これってあれか。
 伊万里言ってたな……ヒートってやつ。
 わたしの月経周期はどうだっけ。って、わたし犬か。犬なのか。
 早くトイレから帰ってきてよ。伊万里、何やってんのよ。
 いや、この場合、伊万里がいてもどうにもならない。むしろ面白がられるのがオチだ。やっぱり帰ってくるな。伊万里。



 ふいに織部くんの手がわたしの膝から離れた。
 あっと、思う間もなく今度は頬に伸びてくる。
 長い指先が頬をつまんで、そのまま横に引っ張った。
 痛くはないけど、わたしの顔は横にひしゃげたカエルか、潰れた大福みたいになっているんじゃないか。
「ひゃ、ひゃめれ……!」
「俺に飽きたか」
 アキ……た?
 言われている意味を考えるより、今の自分のカエル顔を見られている事実のほうがきつい。
 もう泣きそう。
 さらに、織部くんはわたしの頬を引っ張った。
 ひどく抓っているわけじゃないから痛みはないけど、そんなことされたら、ますます 顔が横に伸びるじゃないか。
「ひゃふ?」
 自分でも意味不明な言葉を発してしまって、恥ずかしさもマックスだ。
 発情中の犬からカエルになったな。わたし……。
 哺乳類から爬虫類に降格。いや両生類。
 よりによって、織部くんの前でこんな馬鹿面を公開するなんて、精神的拷問か。むご過ぎる。
 ……切実に死にたい。

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