世界で最も美しい数式も殿下は苦手でございます。




 情けない顔をして優衣は、俺を見上げている。
 まるい黒目がちの大きな眼が潤んで、唇が物言いたげにわずかに開かれたままだ。
 ぷるっとした下唇は、和菓子に似ている。
 なんだったかな。
 祖父さんの家で、夏になるとよく出てくるやつ……そうだ。水まんじゅうとかいう“聖護院八ッ橋”の桃餡のアレか。
 甘味は好みではなかったのだが、こいつを見ていると、そのまま食ってしまいたくなる。
 カニバリズムを地で行きそうだな。食欲と性欲が直結している。



 優衣の父親と囲碁の約束をしていたのだが、仕事が長引いて帰りが遅いらしい。
 本を借りるという苦しい口実で、彼女の部屋に通された。
 優衣の部屋に入ったのは、今日で二度目だ。
 こんな機会は、めったにない。
 いつもは、彼女の父と囲碁をすることになるので、たいていは客間だ。
 以前にこの部屋に来たときには、かなり緊張した。
 女の部屋など見るのも入るのも初めてのことだったから、ピンク一色でぬいぐるみがうずもれている部屋を勝手に想像していたのだ。

 前に来たときも、突然だったのに室内はきちんと片付いていた。
 白い壁にパイン材の家具。観葉植物がバランス良く配置されている。
 意外にもぬいぐるみは、ほとんどない。机の上にある本物そっくりの猫ぐらいか。
 暖かな雰囲気のある部屋は、いつ来ても不思議と落ち着く。
 さすがに本が多い。大きな書棚には隙間なく本が並べられている。
『実践型レファレンス・サービス』『レファレンス・サービス実例集』『デンマークのにぎやかな公共図書館』『図書館員として何ができるのか』他は書評雑誌など仕事関係の本。
 新聞などで話題になっている本はジャンルを問わず一通りある。
 俺の知らない女流作家の名前もあるが、タイトルからしておそらく恋愛小説のたぐいだろう。
 図書館で彼女が子供に読み聞かせをしていた絵本もあった。
 俺も同じものを持っている。優衣が真剣な顔をして子供たちに読んでいたから。



 本ばかり見ていると彼女の機嫌が悪くなる。
 まあ、それも可愛いのでわざと怒らせてみるのも悪くはないが、せっかく擦り寄ってきてくれるのだ。めったにあることではない。
 優衣は、俺の膝にするりと入り込む。
 毛足の長いラグの上に二人でこうして座っていると、まるでずっと昔からこうしていたような気がする。
 俺たちが出逢ってから、まだそれほど時間が過ぎたわけでもないのが不思議だ。

 気がつくと優衣は、俺の膝の上でこぢんまりと収まっている。
 俺が部屋にいると、当然のように膝の上にのるのだ。
 外では何かと理由をつけては離れたがる年上の恋人だが、なぜか自分の部屋ではなかなかに大胆だ。
 自分のホームグラウンドだからか。
 優衣は、背を弓なりにそらしながら俺の膝の上に両手をつく。まるで猫だ。
 喉もとを指先で撫で上げてやると、嬉しそうに頭を擦りつけてきた。
 薄物のブラウスは、襟ぐりが深い。
 そんな恰好をされると、胸の谷間がはっきりと見て取れる。

「織部くん……」
 鼻にかかった甘ったるい声。
 猫が喉を鳴らしているのに似ている。
 語尾がわずかに伸びるのは、今のこいつが緩くなっている証拠。
 普段は、妙にガチガチで、うかつに手を出そうものなら拒絶されてしまう。そんなときは、意地になってはいけない。
 強引なことをするとこいつは、すぐに臍を曲げるからだ。
 機嫌を直させるのに手間も時間もかかる。
 だが、一度こちらのペースに巻き込んでしまえば、どんなことでも受け入れてしまう。






 下から見上げる彼女は、こんなに小さかったのだろうか。
 ふわふわと柔らかく、甘い香りがする。
 このまま抱きしめてしまえば、俺の腕の中で壊れてしまうかもしれない。
 同じ人間という生物でありながら、男と女ではこれほどまでに違うのが不思議な気がする。
 男のような骨っぽさがない。まろやかな肩。
 柔らかな髪からは、甘いシャンプーとリンスの香りがする。

 俺の胸にもたれかかる優依の身体が触れるのが、今の俺には非常に苦痛だ。
 大腿の上に感じる柔らかな彼女の尻の柔らかさ。華奢な足。
 小柄なくせに体だけはしっかりと成長している。……いや、相手は立派に成人した女性なのだから成長しきっているのはあたりまえだ。
 服を着ていても張り出した胸の大きさが判る。
 今なら触っても優衣は、怒らないだろう。
 前にも触れたことのある眩しいほど白い乳房を思い出す。
 男の手に余るほどの碗を伏せたようなつんと上を向いた胸。その中央で震える小さな蕾。
 このまま襟ぐりから手を突っ込んで、じかに揉みしだきたい。
 いつかの夜のように、無理やりでも服を脱がせて、下着を奪い獲ってやりたい。


 そんな感情が沸き起こる。
 今まで感じたことのない下腹から突き上げてくる欲望。
 それを実感することは、自分も世間なみの男に戻れたのだと歓ぶべきことかもしれない。
 幼少期のトラウマは、けっこう長らく引きずっていたのに、そんなものさえ霧散してしまうほど今の俺は、こいつに欲情している。
 膝の上に感じる小さな丸い尻の温かさ。寄りかかる身体のふにゃっとした頼りなさ。


 いかん。何を考えているんだ。
 もうすぐ彼女の父親も帰ってくるし、いつ母親が茶菓を持ってくるか判ったものではない。
 冷静になれ。俺!
 せっかく今まで築いてきた信用をなくしてどうする。
 まずい。
 膝の上で優依が身じろぎする。
 こんなまかせきった顔をしているこいつは、俺がどんな眼でみているのか、気がついていないのか。
 それとも、本当は解っていて、やっていることなのか。

 こいつのほうが俺より年上だ。
 俺以外の男を知っていても当然かもしれない。考えたくもないことだが、それは仕方のないことだ。
 仕方ない……いや、ダメだ。落ち着け。落ち着くんだ。俺。
 π/4=atn(1)=1-1/3+1/5-1/7+1/9-1/11+ ……いや、これは単純な形をしているが収束が遅い。
 オイラーの公式ならπ/4=atn(1/2)+atn(1/3)

 ……俺はいったい何をやっているんだ。
 恋人を膝にのせて円周率の計算している場合か。
 こんなとき、どうやってやり過ごすんだ。
 そういえば理系のやつが言ってたな。
 有理数の無限和がπという超越数になるのを感動すべきなんだとか。まったく感動しないぞ。
 俺が理系じゃないからか?
 円周率の略表記より、今、目の前にあるパイから目が離せない……って、オヤジギャグもいいところだ。
 いや、この場合は、ただのエロオヤジか?
 じりじりと冷や汗がにじみ出てくる。

「ねえ、織部くん……」
「なんだ」
「怒ってるの?」
 精神的に切羽詰った状況だから、自分がどんな顔をしているのかなど考えもしなかった。
 よく目つきが悪いだの、顔が犯罪者だの、ドス声が怖いだのと長らく言われてきたのだ。
 今まで別に気にも止めなかったことだが、それが原因で優衣に避けられたら、もはや俺には整形する以外に道は残っていない。
「……い、いや……そんなことはない」
 笑おうとして失敗した。口角が引きつっただけだ。
 優衣が今にも泣きそうになっている。
 小さな子供を苛めているような気がしてきた。

「織部くんは……恋人が膝の上にのっているのに、何も感じないの?」
「…………は?」
 俺の発した間の抜けた返事に、優衣の表情が固くなっていく。
 やばい。
 眉間に皺が寄り、口がへの字に曲がる。
 もともと潤みがちだった眼の縁に涙の露がじわっと盛り上がってきた。その様子があまりにもいじらしくて、たまらない気持ちにさせられる。
 抱きしめようと両手を回したが一瞬、遅かった。
 優衣は、俺の膝から降りると少し離れた距離に座りなおす。
 俺が手を伸ばしても、すかさずクッションを間に置いて近寄ることを許さない。
「織部くんなんか……嫌い!」

 このバカ。
 何言ってやがる。
 怒鳴りつけたかったが、泣きべそで見上げるこいつにそんなことが言えるはずもない。
 くそっ。可愛いじゃないか。
 小さなこの顔は、表情豊かでころころとよく変わる。大人のくせに感情を抑えるのが苦手らしいが、そこがまた可愛い。あまりに可愛すぎて、このままどこかに閉じ込めて、俺以外の誰にも会わせたくないという犯罪者的な発想さえ生まれる。
 我ながら、危ない精神状態だ。とりあえず、落ち着こう。
 年上の女といえば、可愛いより奇麗だと感じるほうがあたりまえなのかもしれないが、こいつはやはり可愛い。
 可愛いくせに、妙に色気があるのもいい。だが、今はその色気はいらない。
 今の俺がいろいろとまずい状態なのが、なぜ判らんのか。
 わざとか?
 お前、わざとやってるのか?

「織部くんのバカ。鈍感!」
 鈍感はどっちだ。
 わが恋人の凶悪なまでの鈍さに、俺の方が泣きたくなる。
 どうせ、こいつのことだ。
 ちょっと抱きしめて欲しいだの、軽くキスしてくれだのと言うのだろう……。それで収まると思っているのか。
 お前はよくても、俺がよくないんだ。
 いや……ちょっと待て。
 男のこの状況に気づかないということは、やはりこいつは“知らない”のか。
 知らないなら、教えてやろうか。
 俺はクッションを放り出して、優衣のほうへにじり寄った。
 頭の中では、友人が言っていたこの世でもっとも美しいと言われているオイラーの等式が踊っている。
 冷静になろうとしても、無理だ。
 こいつが、こいつでいる限り俺にはどうしようもない。
「優衣」
 俺が名を呼ぶと優衣は、泣き顔のまま膨れている。
「だって……!」
 そのマシュマロみたいな頬をつかんで、こちらに向かせる。
 思いっきりその唇に、頬や喉元にくちづけてやろうとした時、ドアをノックする音が聞こえた。
「優衣。お父さん帰ってきたわよぉ!」
 彼女の母親の声に、唇が触れるまで、一ミリという距離間で見つめ合っていた。



 eiπ+1=0
 ――この式を変形させて、愛(i)に愛(i)をかけるとイッパイ(π)の愛になるんだぜ。
 友人の言葉をふいに思い出された。
 何が愛だ。
 日常生活を送る上で、直接的にはまず使わない。この状況でも何の役にも立たない。

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