円周率に気をとられて、背後からの人の気配に気づくのが遅れた。
 足音が間違えようもないほど、こちらへ近づいてくる。
 あわてて優衣を庇うように振り返ると、警官が立っていた。
 脳内の血流が一気に引いていくのを感じる。
 だが、そんな動揺を見せるわけにはいかない。
 警官の前に立ちふさがるようにして、優衣を隠す。小柄な彼女は俺の後ろにすっぽりと隠れる。

「ちょっと、すいませんが……」
 二十代前半といった感じの警察官がこちらを見て、ぼそぼそと何か言っている。
 頼りなさそうな男だな。人見知りの営業社員みたいだ。
「なんですか」
 そう言いながら、さっきのコンクリート塀を拳で打ちつけたのを見られていたのかと思った。
 器物損壊の現行犯か……。あれは親告罪だったな。
 背後の優衣が、俺の服の裾を握っている。
「あの、この辺で痴漢が出たのでご協力いただけないかと」
 痴漢?
 とうとう痴漢か。まあ、無理もないが、なんだか腑に落ちない。
「協力しますよ」
 これが噂の職務質問というものらしい。
 ため息が出そうになるのをこらえていると、いきなり後ろから優衣が顔を出した。
「ち、違うんです。わ、わ、わ、わたしたちお父さんの煙草を買いにきただけで……あの、彼、まだ高校生だから、わ、わたしがっ!!!」
 聞かれもしないことを、支離滅裂に優衣は並べたてた。
 いらんことを……。
 頭を抱えそうになる前に、警官のほうが先に口を開いた。
「そうか。でも高校生は煙草を買っちゃいけないんだよ。お父さんのでもね。とりあえず、今日はお兄さんが一緒でよかった」
 優衣を見た警官が何を勘違いしたのか、急ににこにこと愛想よくなった。
 あっけにとられたのは、優衣のほうだ。
 だが、この童顔に化粧っけもなく着ているものも、白のブラウスに薄手のカーディガン。膝丈のスカート。女子高生に見えなくもない。
 いや、今どきの高校生のほうがもっとしっかりメイクをしている。
 彼女がよけいなことを言う前に、俺は警官の職務質問をさっさと済ませようとした。
「名前と住所を申し上げたらいいですか。荷物は持ってないんで、ポケットの中の物でもお見せしましょうか」
「いや、もう十分です。ご協力ありがとうございます」
 そう言って、警官は深々と頭を下げた。
 すれ違いざまに、優衣に向かって軽く手を振った。
 俺の優衣になれなれしいぞ。あの警官はロリコンか。(いや、彼女の年齢を考えたらロリコンは違うのか)
 少々、ムカついたが顔には出さず俺も、頭を下げた。
 それぐらいの処世術は身につけている。

 警官が立ち去った後、優衣は顔を赤くしてむくれていた。高校生と間違えられたのがショックだったのか。
 あるいは、下着を奪われたままにしていることを怒って、拗ねているのか。
 その顔を見ていると、高校生どころか中学生にも間違いかねない。
 だが、さっきの警官がおとなしく引き下がったのもこいつのおかげかな、と思った。
 拗ねたり、むくれたりする顔がまた可愛いのだ。
 思いっきり抱きしめて、舐めまわしたくなる。いかんな。変態すぎるぞ……俺。
 だが、今の段階ですでに変態だな。
 下着を脱がせたまま、こうして外を歩かせるなど、なんのプレイだ。
 だが、このままコンビニへ連れて行くわけには……いや、恥ずかしがってモジモジしている優衣を見るのも……いかん。どんどん変態の深みにはまっていく。



「ねえ……織部くん」
「なんだ」
 そう答えたものの、やはり優衣の呼び方が変わっているのが気に入らない。
「……返してね。……あの、……わたしの」
 もじもじと内腿を擦り合わせ、スカートの裾を両手で引っ張っている。
「何をだ」
 判っていたが、とぼけてやると、優衣はまた情けない顔になった。
 泣いても、返してやらんぞ。
 俺の名をちゃんと呼べるようになるまでは。

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