優衣を知る以前は、それほど他人への執着を感じたことがなかった。
 子供のころのトラウマか。あるいは、もともと俺の性格によるものか。
 異性に限らず人間への関心は、薄いのかもしれない。
 一般的にこの年齢になると、自分でも押さえきれない性への欲望……不能でなければ、そんなものを持て余すことになるらしい。
 鬱々とした暗く滾るような、おぞましい感情を押さえ込むのには涙ぐましいほどの努力をしなくてはならないとも聞く。
 確かに昔の俺にとって性欲は、罪悪感と紙一重だった。
 よく義父が言っていた。
 すべての人間はアダムの罪を背負っている。その原罪ゆえに、人間は生まれながらに堕落している。
 それは、聖職者でも同じことだ。
 修道院ほど戒律が厳しいわけではないが、カトリック系学校で幼稚舎のころから、家族よりも長い時間を過ごしてきた。皆がそれぞれに苦労してきている。
 学内で性犯罪へ走るやつもいた。男しかいない環境というのは、しみじみ不毛だ。そして閉じられた社会というのは、その中で何が行われていたとしても、決して明るみにでることがない。

 幸い俺には夢中になれるものが多かった。
 校内にある図書館は、興味を惹かれる本が山のようにあり、なりゆきで所属することになった部活は、意外にものめり込んだ。
 弓道は、団体戦もあるが、基本的に一人でするものだ。射るべき的は己の中にある。心を落ち着かせて、的にてたときの達成感。あれは他では得られないものだ。
 その合間に定期考査があったり、ネットビジネスにまで手を出せば時間などいくらあっても足りないぐらいだ。
 眠れぬ夜に過去のトラウマを持て余すこともあったが、明けない夜などない。朝になれば忙しい日常が待っている。
 そのせいだろうか。
 自分だけの“恋人”が欲しいと思ったことなど、一度もなかった。
 それほどに日々は、充実して楽しかった。一日は短くあっという間に過ぎる。

 他人から告白されたり手紙を渡されたりしても、そもそも人間に興味が湧くこともないのだから、相手がブスだろうと美人だろうと、男でも女でも同じだった。
 恋愛という感情を否定するつもりもないが、俺には、まったく関わりのないことで、関わりたくもなかった。
 もっとも、そんなことを口にしたら数少ない友人が心配して、わざわざ無修正のAVを持ってきたことがある。(寮内のPCには、アダルトサイトへのアクセス制限がかけられている)
 すべての女は、アレを足の間に挟んでいるのか……と妙な感慨が残っただけで、いわゆる“晩のおかず”にはならなかった。
 おそらく、俺の人間どうしのコミュニケーションが決定的に不足している。もはや“障害”と言ってもいいだろう。
 そもそも、世間にはコミュニケーションに問題を抱えている人が多いわけだ。自分がその中のひとりだとしても、今さら、どうこうしようとは思わない。


 自然界において、男の存在とは種族を保存するためだけのものだと聞いたことがある。だからライオンの雄は、群れの中で寝てばかりで生殖以外で役に立たないし、カマキリや蜘蛛の雄は、交尾の際に雌に喰われて産後の栄養になるらしい。
 それなら俺は、すでに“男”ですらないのかもしれない。
 ある特定の異性への恋着というのは、俺に無縁の感情だった。

 それもこれも、優衣に出逢うまでのことである。
 とにかく優衣の存在は、俺の人生を一変させたほど画期的なことだ。
 それ以前の俺は、迷い悩むことなどほとんどなかった。
 おそらくは、義父の教育方針のなせる業だったのかもしれない。まっすぐな道を迷いもせずにただ疑いもなく歩いてきた。
 途中で、思いがけないさまざまな事象もあったが、それは大きな問題ではない。
 俺は、もう与えられたものだけでは足りなくなったのだ。
 食事と睡眠。休養を摂らなければ人間は生きていけない。
 それにもう一つ、優衣が加わった。

 自分以外の、まったく別の人間に溺れる。
“恋に溺れる”とは、文字通りだ。息もできない。
 それ以前の自分に戻ることは、もうないだろう。それが正しいことなのか、間違っているのか判らない。
 ただ、我ながら馬鹿かと思う。

 食事や睡眠ならば、ある一定の量だけ摂取すれば体が満足する。
 優衣だけは違う。
 どれほど優衣に焦がれても、どれほど抱きしめても足りない。
 優衣への自分の妄執が恐ろしいほどだ。
 日がな一日、思うのはあいつのことばかり考えている。会えなければ、どうしようもなくもどかしい思いに苛まれた。
 授業どころか、儲け話にも身が入らず、わりのいい話をいくつも取り逃がしたこともある。我ながら信じられない。

 俺は、優衣を抱きしめる。
 小さなあたたかいぬくもりは、わずかに力を入れただけで粉々になってしまいそうだ。
 それでも、確かめたくて逃したくはなくて、つい力を込めて抱きしめてしまう。
 優衣の体の熱さが、このまま俺と同化して離れなくなってしまえばいい。
 触れている瞬間だけが、すべてで……。離れてしまえば、心もそれだけ遠くなってしまうのではないかと不安になる。
 俺はここにいる。優衣がいるこの場所に。
 優衣がいなければ俺の存在はなくなる。

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