殿下の呟きでございます。




 俺には、年上の恋人がいる。
 彼女は社会人だ。
 だが、高校生の俺から見ても彼女は頼りない。
 司書をしているが、あれでよく採用試験に通ったものだと感心する。
 おっとりとして、果てしもなくドジな彼女が職場でどうしているのか。
 気になって学校の帰りによく覗きに行くのだ。
 なんとなく保護者になったような気がする。
 同じ学年の女子でも、まだもう少ししっかりしていると思うのだが……。



 職場での優衣は、髪をひっつめにして、化粧も薄い。薄いというより、ほぼ無いに等しい。
 もっとも化粧が薄いのは、いつものことだ。デートのときには(本人に言わせると)多少、気合が入っているらしい。
 服装もジーパンにトレーナー。たぶんそれが、動きやすい格好なのだろう。
 その上から作業用のエプロンをしているが、ポケットにはペンやメモ帳などをいっぱいに詰め込んで、ときどき落としている。
 うちの学校の司書教諭は確か白衣を着ていたはずだが、公共の図書館には制服はないようだ。
 大量の本を抱えて、あちらの棚。こちらの棚へと、ちょこまかとよく動く。
 側で見ていると、もう少し効率よくできそうなものだが。
 だが、あのハムスターのように館内をくるくると回っているのがよいのか。しょっちゅう子供や年寄りに声をかけられている。
 そのたびに愛想良く答えているのだが、呼び止められるのは、たいてい優衣だけだった。
 どうも彼女は、声をかけられやすいようだ。
 普段でもよく人に道を聞かれているが、職場においても似たような状況らしい。

 仕事中にのみ使われている丸い黒ブチの眼鏡が、真面目な女子学生のようもあり、どこか間が抜けているようでもあった。
 彼女は近視で話をするときには、こちらをじっと見つめるのが癖らしい。
 その様子があまりにも真剣で、彼女自身の誠実さが滲みでてくる。
 それでいて堅苦しくないのは、優しい人懐っこい目とのんびりとした口調のせいか。
 カウンターには他にも、司書がいるのに作業中の優衣にばかり人は行く。
 なんとかの本はどこにあるかとか、新刊は入っていないのかとか……。
 彼女は手を止めて、一緒に本のある場所まで探しに行ったり、カウンターに戻ったりと忙しそうだが、どんなに忙しくとも迷惑そうな顔をしない。
 癒し系のオーラが全開なのだ。
 服装や髪型がきちんとしていて、表情が穏やかで、姿勢が良くて、頼れそうな優しさがあって……例えるなら、司書というより幼稚園の先生か。
 とにかく、いつも機嫌よさげに、にこにこ笑っている。

 ただ、彼女は少々トロい。
 書棚の角で足先をひっかけたり、何もないところで転んだり……そんなところは、幼稚園の先生というより、園児に近い。
 あまりのトロさに見るに見かねて注意してやると優衣は、今にも泣きそうな顔になる。
 いい歳した大人が年下の高校生にちょっと何か言われたくらいで、そこまで動揺するのがこちらとしても最初は驚いた。
 だが、その顔が可愛らしくて苛めたくなる。
 つい意地悪くちょっかいを出してしまいそうになった。そんな衝動がどうにも止められない。
 付き合う前はそうやって、優衣の泣きだしそうな顔を眺めるのが、俺の楽しみだった。
 今はそれをすると二人きりになったとき、拗ねて手も握らせてもらえなくなる。
 拗ねる姿もまた、たまらなくいじらしいのだが、そうすると優衣に触れられなくなるので止めた。



 そんなわけで今の俺の楽しみは、もっぱら優衣をからかうことに留めた。
 優衣は、俺との関係を必死で隠そうとする。
 まだ俺が高校生であることが、いちばんの厄介事の原因だ。
 世間では、大人である優衣が男子学生を誑かしたと言われるのだと、優衣は心配している。
 果たして、そうだろうか。
 優衣なら、相手が小学生でも騙されそうだ。危なかっしくて見ていられない。
 仮に人に知れてとしても、俺はうまく隠しきる自信はある。
 本当は、優衣とのことを人に隠したくはなかった。ただ、自分ひとりの問題ならば、ともかく世間の煩わしさに彼女を巻き込みたくはない。



 学校行事は何かと面倒なもので、会えるのは夜になる。
 帰りに仕事の終わった優衣を迎えに行って公園に立ち寄る。あるいは少し遠くの喫茶店へ行く。
 そこで俺は、優衣の顔を見る。
 癒し系の彼女の顔を見ているだけで、わけもなく笑いがこみ上げてきそうになるのだ。
 もっとも恋人を前ににやける己の姿のみっともなさを考えて、意思の力で表情を変えない。これは長年、実家で鍛えられた習慣だ。
 見つめられただけで優衣は、今にも泣き出しそうな潤んだ眼でもじもじとする。
 それがまた可愛いので、つい必要以上に髪を触ったりキスしたりすると、彼女が怒るわけだ。
 しかし、そのふくれっつらが面白くて、ついついやり過ぎてしまう。

「わたしが性犯罪者として、警察に捕まってもいいの」
 優衣は真顔でそう言うが、捕まるなら俺の方だろう。
 外見だけなら、明らかに俺の方が年上に見えるし、嫌がる優衣に迫るのも俺だ。
 痴漢だと訴えられないのが不思議なくらいだ。
 思えば優衣と親しくなったきっかけも、痴漢だった。
 仕事の遅い優衣が心配で、部活の帰りに優衣の後をつけたことがある。
 まるっきりストーカーと化す自分が哀しいが、優衣のこととなると理性がなくなった。
 恋をする人間は限りなく馬鹿に近づくと、思い知ったのはあのころからだ。

inserted by FC2 system