あれは、調べ物に時間がかかって、帰りがいつもよりも遅くなった夜。
 人通りの少ない夜道を小走りで行くと、仔猫の鳴き声が聞こえた。
 仔猫特有の哀れっぽい鳴き声に、わたしは足を止めてその声を捜した。
 暗い路地裏に入った時、ちょっとまずいかな……と思ったけど、猫の鳴き声に釣られてわたしはさらに奥へと迷い込んだ。
 やがて、猫の鳴き声は途絶えてしまう。
 しばらくあたりを捜したけれど、もはや猫の姿どころか泣き声さえ聞こえなかった。代りに人の靴音だけが響く。
 諦めて今来た道を戻りかけたとき、背中を虫が這い上がるような不気味な感覚を感じた。
 言葉にはできない。何かとてもいやな感じ。……怖い。
 闇の中に感じるある種の敵意のようなもの。
 何かもっと得体の知れない気持ちの悪い感情の塊があるのを感じる。
 わたしは焦ってそこから走り出した。あの靴音が追いかけてくる。どうして。
 日ごろの運動不足のせいで足が思うように前へ進んでくれない。それでも、人通りの多い商店街まであともう少しのところだ。そこまで逃げ切れれば。
 足音が迫る。すぐ後から乱れた呼吸が聞こえた。
 ハッハッハッハッと繰り返される犬のような短い息づかい。
 強い力がわたしを背後から羽交い絞めにする。
 悲鳴をあげた――いや、声を出したつもりだった。
 わたしの咽喉からは、かすかな息が洩れたようなそんな掠れ声しか出ない。
 舌は乾ききって、痺れたようになっていた。
 周囲は民家なのに、窓には灯りがともっていて、人がいるはずなのに。
 わたしは、渾身の力であがくが、その腕はびくともしなかった。



「助けて、誰か」
 わたしは、泣きながら叫んでいた。やはり人は、出てこない。
 引きずられて、どこか暗がりに連れ込まれる。
 最悪の事態を想像して、全身に水を浴びせられたようにぞっとした。
 このまま、どうにかされるぐらいなら、舌噛んで死んだほうがましだ。
 いや、その前にこいつを殺してやる。
 そう思った。必死に抵抗するが、相手はびくともしない。
 自分の無力さを思い知ったその瞬間。
 ふいに拘束する力が緩む。
 わたしは相手腕を引っ掻いて逃げ出した。

 少し離れて、ようやく気がついた。暗がりの中で二人の男が争っている。
 互いを罵り合う大声に、震えあがって足がすくんだ。
「痛ぇ、この野郎。何しやがるっ!」
 なぎ倒される音。殴り合うような重い音が何度も繰り返されている。
 何かにぶつかって、壊れた破片が飛んできた。
 怖くなって、その場から逃げ出しそうなる。でも、警察を呼ばなきゃ。助けくれた人がいる……。

「こっちのセリフだ。この外道が!!」
「うっせぇ。こいつ!」
 二人の男の声。その中によく知っている人がいる。
 わたしの身体は硬直してしまった。
 外道……なんて言葉、時代劇ぐらいでしか聞いたことがない。あんなしゃべり方する人なんて他にいない。
 穏やかで物静かな声音しか聞いたことがないのに……。
 自分の意思とは関係なく両目からぶわっと涙が溢れだした。
 わたしを助けてくれた人って……まさか。

「織部くん、織部くんなの?!」
 わたしの声に彼は、気を取られたらしい。いきなり相手から横腹に蹴りを入れられた。
 彼がよろめいた瞬間に、見知らぬ男は逃亡する。
 慌てて織部くんに駆け寄ると彼は、わき腹を抑えながらわたしの顔を覗き込んできた。

「けがは」
 不安げな顔でわたしを見つめる織部くんに、わたしは勢いよく首を横に振った。
「織部くんこそ、病院行かなきゃ」
「俺なら大丈夫ですから」
「だめよ、さっきの乱闘で内臓破裂でもしていたらどうするの。人間の体って案外もろいものなんだから」
 必死で力説するわたしを見て、織部くんは苦笑いする。
 今になって考えてみたら、あの時のわたしは涙と鼻水でとんでもない顔をしていたのだと思う。
「判りました。でも志野さんを送るのが先です」
「だって……」
「立てますか?」
 織部くんは手を差し伸べてくれる。
 その手に捕まって、わたしは立ち上がった。……つもりだった。
 膝に力が入らない。自分の意志とは関係なくカクカクと震えてしまう。
「あの……」
「どうしました」
「立てない」










 結局その日、わたしは内臓破裂の危険性のある高校生に負ぶってもらって自宅に帰った。
 何度も降ろして欲しいと言ったが、まったく聞き入れてもらえない。
 家までの距離があれほど遠く感じたことはなかった。
 歩いて通えるほどの近さなのだけど、背負っている織部くんからすれば、さらに遠い道のりだと思う。
 それでも、彼の広い背中や体温を感じられるのは、本当に幸せだった。
 こんな幸運は、きっともう二度とないだろう。
 そう思うと、幸せでいっぱいに膨れ上がった風船が急にしぼんでいくかのようで切なく、泣けてしまいそうだ。
 帰る道すがら、わたしが話したのは「重くない?」とか「もう大丈夫だから降ろして」とかそんなことばかりで、織部くんからは「別に」という愛想のない返事だけだった。

 事情を聞いた父は泣いて拝まんばかりに、織部くんにお礼を言う。
 無理やり引き止めて夕食を勧める母に、病院に行ってもらう方が先だとわたしが言うと、父が慌てて車を出した。
 もう遅いし怪我もないので織部くんは、そのまま帰るという。
 改めてお礼にと両親が頭を下げると、彼は丁重に断った。

 せめて車で送らせてほしいと頼むと、織部くんはなんとか応じてくれた。
 父の車で織部くんが行ってしまった後、母はわたしの体をぎゅっと抱きしめてくれる。
 母の優しさに触れながらも、この手が織部くんだったらな……などと不埒なことを考えてしまった。
 織部くんのおかげで、痴漢の恐怖はわたしのトラウマにならずにすみそうだ。



 それから、織部くんとの距離は近くなったと思う。
 しだいにわたしは砕けた話し方をするようになった。
 彼は、相変わらず敬語を止めない。
 それがちょっと寂しい。
 わたしの方がずっと年上だから当たり前なのだとは思うけど……。



 痴漢騒ぎの後、勤務が遅い日は両親が迎えに来てくれるようになった。
 そんなとき、彼が図書館にくるとわたしは、こっそり家に誘う。
 同僚たちに見つかると、うるさいからだ。
 バイトの大学生たちは、早くも織部くんに目をつけている。
 大学生と高校生の織部くんなら、なんとか付き合えなくもない。あれほど大人びた高校生はいないだろうし。
 わたしは、早くも戦線を離脱している。
 彼から見れば、わたしは図書館のお姉さんに過ぎない。
 けれど、いずれ織部くんにも恋人ができる。
 そうなったら、わたしは彼の前で笑えるのかどうか、今はまだ判らない。

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