殿下のキスは、大人仕様でございます。




 わたしには、秘密がある。
 誰にも知れてはいけない秘密。
 知れたら、きっと社会的に抹殺される。
 社会的といっても、社会人になって一年ほどなのだから、社会的地位などないに等しいのだが、ようやく得た大切な仕事を失いたくない。

 たまたま近所の図書館で司書募集をしているのを見つけて、採用されることができたのも運がよかったからだ。
 大学の司書課程を履修してすぐに就職できたのは、本当に幸運だったと今でも思う。
 だからこそ欠勤遅刻もなく、残業も文句も言わずこなした。
 そんなわたしだから上司の受けもよい。年配の利用者などは、わざわざ並んでわたしのカウンターに来てくれるほどだ。
 小さなころから本が好きだったから、たくさんの本に囲まれてそのうえ誰かの役に立てるこの仕事は、ほとんど自分の天職じゃないのかとさえ思ってしまう。
 レファレンスサービスや子供たちへの絵本の読み聞かせは、まだちょっと緊張する。
 でも、大勢の子供やその母親の前で絵本を読んだり、利用者の調べ物を手伝ったりする仕事は、とてもやりがいがあった。
 本を書架に並べる配架作業も好き。思わず鼻歌が出そうになって、叱られることもたびたびだったりする。
 新品の本にビニールのカバーを貼り付けるのも古ぼけて痛みの多い本を丁寧に修理するのもいい。
 ちょっと黴臭い図書館特有のにおいも悪くない。なかなか風情のあるものなのだ。
 最近は空気清浄機を置いているが、古い本のにおいはそこかしこから漂う。
 それもけっこう気に入ってる。
 とにかくわたしは、この仕事が好きなのだ。



 その仕事も地道に培ってきた信頼関係も、この秘密が知れたら間違いなく崩壊するだろう。
 家族や友人からは、縁を切られてしまうかもしれない。
 今のわたしの立場は、不倫をしているOLに似ている。
 仕事も、家族も友人も失ってしまうという危険と引き換えの恋は、やはり不倫と呼ばれるのだろうか。
 決定的に違うのは、それがふたりの同意のもとであったとしても、わたしだけが犯罪者になることだ。
 ことが明るみに出された場合、不倫なら責められるのは妻子持ちの男のほうだろう。
 わたしは卒業して就職したばかりなのだから、まだ世間知らずのうちに入ると思う。
 そんな言い訳が今の状況で通用するはずもない。わたしは、世間から弾劾され罪に問われるはずだ。
 今のわたしと同じ立場の女性が、外国では裁判で有罪になったと聞いたことがある。
 すべてが明るみになったその時には、わたしも彼から引き離されてしまう。
 彼に逢えない。
 想像もしたくないほど怖い。それは、ありえる現実だ。


 でも、何より怖いのは――










「どうした、優衣?」
 耳朶をうつ彼の声。
 なんて、すてき。
 わたしは、うっとりと彼にもたれかかる。
 広い胸、温かな腕がわたしの肩を抱く。わたしの場所。
 この場所を奪われたら……わたしは、もう廃人になってしまうかもしれない。
 自殺する気力さえなくなって、精神だけが死んでしまう。
 そう思えるほどわたしは、彼に溺れる。
 どうして、こんなにもドキドキしてしまうのか。
 もう何度も逢っているのに、いつも彼と一緒にいるときは、息切れしてしまいそうなほど動悸が激しくなる。
 眼もくらみ、頭がぼうっとなってしまう。

「なんでもない」
「嘘をつけ、泣きそうな顔をしている」
 心配そうな彼の顔が近づく。
 また、そんなに眉間に皺を寄せて……。
 ロダンの考える人ってブロンズ像があるけど、この人はいつもこんな難しい顔をしている。
 わたしは思わず笑ってしまう。

「泣いたり笑ったり、忙しいやつだ」
「稜と一緒にいられるのが嬉しいから」
 普段は呼ばない下の名前で呼んでみた。
 言ってしまったあとで、ものすごく恥ずかしくなってしまう。
 わたしは、こんなにも恋愛ボケする人間だったのかしら。
 まるで、初めての恋に勉強に手のつかない中学生みたい。
 以前のわたしは、こんなじゃなかったのに。ちゃんと仕事をして、家事だって手を抜かない。
 それは、たぶん私の一人よがりなんかじゃないと思う。お母さんは、いつもわたしの料理を褒めてくれるから。
 仲良しの友達と遊びに行ったり、ショッピングしたりおしゃべりしたり……あんなに楽しかった毎日が彼と出逢った後にはすべて色褪せて見える。
 それは、恋愛してる人がよく口にする言葉だけど、まさか自分がそうなるなんて思いもしなかった。
 彼のそばにいるだけで、わたしはいつも不思議な昂揚感と快い緊張を感じる。

「はぐらかすな、馬鹿」
 彼は、怖い顔をして睨んでくる。
 その眸の色は色素が薄い。薄墨色というのかしら。
 切れ上がったアーモンド型の眼が奇麗。低い声が胸の底まで響いてくる。
 すごく背の高いところも、落ち着いた物腰も……。
 とにかく、いろいろすてきで困る。
 困るというか、だんだん憂鬱になってしまう。彼のことが好きすぎて、そんな自分がイヤになる。
 あ、ちょっと待って。
 こんなに近づいていたら、わたしの毛穴までばっちり見えてしまう。

「あわわ」
 わたしは、慌てて彼から離れた。
 今日は化粧のノリが悪い。寝不足は美容の大敵とはいうけれど、ファンデーションが粉浮きしてしまった。
 夕べは、徹夜で読み聞かせのための絵本の朗読を練習していたのが悪かった。
 織部くんと会うのは判っていたんだし、もっと早くに寝てしまえばよかったのに。
 今さら後悔しても、もう遅い。本気で泣きたくなってきた。


inserted by FC2 system