だけど、今さら広間に戻りたくはない……複雑な気持ち。
 踊れないのにダンスは、もうたくさん。
 いくら彼が、リードしてくれたって知らないステップに何度、転びそうになったことか。
 長く裾引くローブ姿の女性たちの秋波。彼は目立ちすぎる。
 そして、この優雅で奇麗な人の連れているのが、冴えない東洋人だとしたら……周囲の視線も痛い。

 もう、帰りたいな……。

 落ち込むあたしを、彼はゆったりとした動作で、押しとどめる。
 押しつぶされそうな圧迫感に、あたしは両足を踏ん張りながら、その場に立つ。
 膝が笑い出しそうになるが、こんなところで弱みを見せてはいけないような気がする。
 肌が粟立つ。
 低い声音で、奴はあたしの耳もとで囁いた。
「月の引力が波をおこさせるなら、お前の存在がこの俺をこうも惹きつけるのか」



 ――……………………クサッ。







 クサ過ぎる。
 歯の浮くような科白を、顔色一つ変えずに言ってのけた。
 美形だから許されるんだろうか。
 いや、やっぱり、歯が浮く。治療したはずの歯が疼く。
 聞いているほうが恥ずかしいけど、相手はまったく気にしていない様子。イタリア人は、聖職者でさえ、こんな発言が許されるのでしょうか。

 彼は、うっすらと艶麗な微笑を浮かべて、あたしの顔に手を伸ばす。
 金縛りにあったように、あたしは動けない。
 ヤバい。本当に怪奇現象なのか。いや違う。ちょっと乙女モードのスイッチが入っただけだ。
 耳が、がんがんと鳴り響くように痛む。指一本動かせないわが身が情けなかった。
 こんなところで何をしているのだ。あたしは……。
 奥歯をかみ締めて睨み付けてやるが、彼は歯牙にもかけない。



「お前は美しいな」
 そう言われても、素直に喜べない。
 むしろ彼が、こんなありきたりの口説き文句ではなく、悪魔祓いの呪文のほうがお似合いだ。
 じっとりと、冷たい汗が背中を伝う。
 深く深呼吸をしてから、あたしは答えた。
「その日本語、間違ってる。美しいってのは、あそこにいるような……もっと上品でキレイな女の人に向かって言うのよ」

 彼は暗い色をした眸を細めた。
 そうすると長い金の睫が影を落として、悪魔みたいに蠱惑的なまなざしが、微かに優しく見える。
「お前は鏡を見たことがないのか」
 そう言って、あたしの顎に彼は手をかける。
 長い指が絡みつくように、顎から頬に触れ、ゆっくりと持ち上げた。冷たい、まるで氷みたいに冷たい手だ。
 手袋をつけているのに、どうしてこんなにも冷たいんだろう。
 目を逸らしたいのに、それができない。
 吐息がかかりそうなほど近くにある美しい顔から、目が離せない。
 濃い金髪に縁どられた奇麗な顔。
 あたしも間違えている。
 美しいっていうのは、広間にいる胸元の開いた色とりどりの衣装をまとった貴婦人たちではない。

「毎朝見てる。イヤっていうほど」
 まるで売られたケンカを買おうかという勢いであたしは答えていた。
「わが眼に、その顔を映し見るがよかろう」
 強い力。でも決して乱暴じゃない。
 耳に注ぎ込まれるその声音はまるで、麻薬のようにあたしの四肢を痺れさせ、不思議な高揚感を与えるのだ。
 今、あたしは幻覚を見ているんだろうか。
 悪魔のよう……いや、違う。
 まだ、悪魔のほうが親切に違いない。
 底冷えのするような低い声音は、あたしの胸をこじ開けて、心臓をわしづかみにする。
 彼は、聖書の残酷な神だ。
 あたしは身を硬くして、退くことも手を払うこともできない。

 恐ろしいはずなのに、このまま呪縛されてしまいたいという奇妙な思いに、あたしは絡みとられ身動きもできなくなる。



『万物は流れる川のように移ろいゆく 3話』にて、杏珠の回想で登場した古城が舞台となっています。

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