偽神の宴




「波の音が……」
 あたしは目の前に広がる大きな湖を見て、思わずひとりごちた。
「まるで海みたい」
 ぶなやポプラの木々に囲まれた湖は、陰鬱として暗い。
 それでも湖から吹く風は、広間で人酔いしたあたしには心地よかった。
 露台の欄干にもたれながら、慣れないローブデコルテの長い裾を持てあます。
 結婚式や二次会で着るような貸衣装とはまったく違う。まるであつらえたようにドレスは、身体の線に合っており、エナメルのハイヒールもサイズはピッタリだった。
 あたしの背が低くて寸胴という日本人体形をうまく欠点をカバーしてくれている。ウエストを思いっ切り絞ってマーメイドのような裾を広げたデザイン……絶対に自分では選ばない。こんな物をどうやって彼は、用意したんだろう。
 首がこってしまいそうなほどの豪華な首飾りは、やたらと重い。
 少し持ち上げてみると宝石が窓の内側の光を受けて輝いていた。
 これって、まさかホンモノ、じゃない……よね。





 大きなフランス窓の向こうでは、たくさんのシャンデリアがまるで洪水のように光を降り注いでいる。
 あまりの眩しさに、あたしはまた、湖に目を向けた。
 まるで、ここだけ世界から切り離されたまったく違う別の空間みたい。
 湖を渡る風が、木々を揺する。
 水面に小さな波が立つ。
 不思議……同じ場所なのに、窓ガラスひとつでこんなにも世界は変わるんだ。




「どうして、波は起こるんだろう」
 まるで小学生の質問のようだ。
 自分でもそう思ったが、頭に浮かんだことがそのまま口に出た。
 まったくこの場にふさわしくない自分の存在がいやでも身につまされる。
 広間にいた女性たちの会話はもっと……なんていうんだろう。ウィットにとんだっていうものなのか。
 政治や思想、あるいはボランティアのことやスポーツなど。
 さまざまな国の言葉が飛び交っていて、それらは彼が訳してくれたけど、あたしにはさっぱり判らないことばかり。
 ――イスラームの中心的宗教聖典クルアーンと、ユダヤ教やキリスト教の聖典はお互いに通じ合う部分が多いわ。
 ――でも、日本は多神教だね。
 ――お客様は神様だもの。ねえ、アンジュ?
 誰かの言葉で笑いが生まれる。
 こういうのって、パーティジョークっていうの?
 そんな会話や、大勢の人の呼気、体温や香水。料理やお酒の匂いに頭がクラクラして、こっそり抜け出してきたのだ。



「風が吹くからだ」
 彼は、そう言った。
 あたしをこのパーティーに連れてきた張本人。
 危ないところを助けてくれた恩人だけど、彼のことは名前しか知らない。
 なぜ、この人が行きずりの日本人のためにこんなことをするのか。
 パーティの目的は慈善活動だというけれど、まったく彼の行動が謎過ぎる。

 ごく平凡な主人公が旅先で、影のある美青年と出逢って恋に堕ちる。その相手がどこかの貴公子だったりする……なんてことあり得ない。
 おとぎ話の王子様ではなく、悪魔のほうが彼には合っている。それなら、ロマンス映画ではなくホラー映画だ。
 このパーティーそのものが悪魔崇拝のサバトだったりして……。



 暗い露台では、あの特徴的な赤い眸の色は判らない。
 それでも、こうして見つめられているだけで、ぞくぞくっと産毛が逆立つような感触だけははっきりと感じる。
 多分……このドレスのせいだわ。
 ブラとショーツをつけただけの身体にまとっているのは、白いレースと絹だけで織り上げたようなローブだ。足元は裾をひくほど長いのに肩はむき出しになっており、首にかけられた宝石がまるで枷のように感じる。
「月の影響かと思ってた」
 話の接ぎ穂を探して、あたしは言った。
 後ろにいる彼の気配が息苦しい。
「ほら……月の引力のせいで波が起こるのかなって」
 後ろにたつ神父を振り向かずに、あたしは前だけを見ていた。
 サバティーニ山地に囲まれた湖は静かで、広間のざわめきからは切り離されている。
 窒息しそうなほど重苦しいのに、それでいて、もう少しだけでいいから、ここにいたかった。

「潮汐のことか」
 彼は律儀に返事してくれた。
「でも……太陽の方が引力は、ずっと月より大きいんじゃないのかな」
 この人は、いつも真面目なのかあたしをからかっているのか判らない時がある。今はどうなんだろう。 やっぱり判らない。
「距離による重力の差だ。万有引力の法則は知っているだろう。この潮の満ち引きは、地球の自転とも関係が深い」
「うん。難しいことは判らないけど」
 あたしがそう言うと、彼は微かに笑った。
 無教養さが露呈されたみたいで、ますます居心地が悪くなってきた。
「いや……そんな事はどうでもいいな」
 ……どうでもいいんだ。
 もしかしたら、退屈しているのかな。あたしじゃ、話相手にもならないのかしら。
 一晩、一緒にいただけのただの旅行者をどうしたいのか。
 彼が何を考えているのか、まったく判らない。
 なんだって、あたしにこんな衣装を着せて、こんなお城に連れてきたんだろう。
 まるで小さい頃に読んだ童話の世界だ。
 有名な海外セレブがここで結婚式をあげたとかなんとか、聞いたことがあるけど……こんな舞踏会なんて、日常的に行われているものかしら。


「夜の湖は美しいだろう。特にこんな月の夜は」
「……そう、ね」
 あいまいにうなづく。
 美しい……というのは、この男のことかもしれない。
 いや、違う。彼は恐ろしい。
 こうとは説明できない何かを、感じる。
 奇麗なのに、どこか気味の悪さ、得体の知れない生理的な恐怖。
 広間ではまだ、ワルツを踊る人々が揺れている。
 オルゴールの人形のように揺れて、流れて人々は輪を描くように踊っていた。
 暗いこちらからは、明るい広間の様子がよく見える。あそこへ戻った方がいいのかもしれない。
 露台の暗さが、あたしの恐怖心をさらに煽り立てる。



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