それでも杏珠は、恐る恐る手を差し出した。
 ブロンズの冷たい感触が指先に伝わる。
 本当は、こんなふうに触ったらいけないんだろうな……。
 そう思ったとたん指先から火傷しそうなほどの熱を感じた。慌てて放そうとしたが、まるで皮膚が焼けて張り付いたように動かせない。
「あっ、ああっ!!!」
 熱さと恐怖でパニックになって無理やり引きはがした。すさまじい痛みを感じながらも、そうせずにはいられなかった。
 手の皮が破けて水膨れになってしまったのではないか……。
 そう思って、恐る恐る自分の両手を見た。

 ――何、これ?
 火傷どころか、赤くもなっていない。

「どうしたの?」
 鞠尾がおちついた様子で言う。
 取り乱したのが恥ずかしくなって杏珠は、もごもごと答えた。
「あの……すごく熱くて……」
「ああ、今日はいい天気だから、日差しで熱くなっていたのかもしれないわね」
「あ、“地獄の門”だから、てっきり……」
 自分でも馬鹿なことを言っていると思う。もしかしたら鞠尾の言葉に乗せられてしまったのか。
「地獄の業火だと思ったのね」
「……鞠尾さん……お話が上手だから……」
「疑うのなら、止めた方がいいわ」
 思いがけず、鞠尾は厳しく言った。
 それまでの優しい物言いとは、まったく違う。

「地獄の炎は、こんな優しいものじゃないわ。皮膚が爛れ骨さえも焼き尽くすのよ。見たことがあるはずね」
 はっきりと言いきられて杏珠は、とまどった。
 大人になってからは行かなくなったが、毎年盆の時期になると檀那寺へ連れて行かれた。地獄絵が開帳されるのだ。
 小さな子供には、けっこうなトラウマだった。
「え、お寺の地獄絵図とか……?」
 地獄といえば、それしか思い出すものはない。
「ふふっ。そう言えば、あなたたち姉弟は、お寺で名付けられたのね。でも、仏教の炎熱地獄とは、まったく別物よ。この向こうは……ね。ふふっ」
 鞠尾の笑い方が意味ありげで杏珠は、背の高い彼を仰いだ。
 逆光のせいで、鞠尾の表情は暗くよく判らない。
 からかっているのか?

「さあ、お行きなさい」
 鞠尾に促されて杏珠は、ブロンズの扉に手をかけた。
 門の上にあるアーチ型の装飾である“考える人”が、杏珠を見下ろしている。
 門扉には、裸体の男女が無数に蠢いている。赤子の姿があるのは、幼くして亡くなった魂なのか。いったい何人の人間がこの門に囚われているのだろう。

 これは地獄の門だ。
 もしこの向こうがあるなら……あるとしての話だが、ステキなファンタジー世界への扉ではないことだけは、確かだ。
 差し出しかけた手を杏珠は、また引っ込めそうになる。だが、今度は、そのまま手を置いていた。
 火傷しそうに熱かった扉も今は、生温かい。
 不安にかられて鞠尾を振り返る。彼は黙って微笑んでいる。
 冷静に考えれば、この向こうにあるのは、別の世界ではない。
 ここと同じ公園が続いているだけだ。
 そうと判っていながら、なおも躊躇してしまうのは、鞠尾の意味ありげな表情のせいだろうか。
 力を込めて扉を押し開こうとした。
 だが、扉はびくともしない。
 さらに両手をつける。全身の力を込めてブロンズの門を押す。開くどころか動きもしない。
 やはり、からかわれただけなのか。

「やっぱり開かないですよ」
 笑いながら振り返ると、鞠尾は怒ったように杏珠を睨み据えていた。
 今まで、ふざけて悪ぶった物言いをしたことがあるが、こんな鞠尾を見たのは初めてで、杏珠は震えあがる。
 頬をこわばらせて杏珠が物も言えずにいるのを見て鞠尾は、忌々しげに横を向いた。
「鞠尾さん……?」
「ダメね。アタシも……杏珠ちゃんのせいじゃないと判っているのに、アタシの中にある女の部分が、杏珠ちゃんを憎んでしまうのかしら。それともこれは、愛情の裏返しなのかしら」
「鞠尾さん。それ、どういうことですか。あたしが何かしたんですか」
 憎む?
 どうして、憎まれるの?
 愛情の裏返しって何?
 あたしは、誰にも何もしてないのに……!

「杏珠ちゃんのせいではないのよ。そんなに怯えないで……でもね」
 鞠尾は、ゆっくりと言葉を探すように、囁くように言った。
「このままでは、あなたが望む友情や、肉親の愛情。そうね。性欲の介入しない絆とでも言うのかしら……そんなものは、決して手に入らないの」
「どういう意味ですか」
「意味? アタシより、杏珠ちゃん自身がよく知っているのではないの?」
「判りません。本当です」
「答えが欲しかったら、今すぐ行くべきだわ」
「でも、この扉、開かない……!」
 杏珠は、彫刻を飾った門扉に力を込めて押し出した。もとより開くための扉ではない。まったく動く気配もなかった。
「開かないのは願わないから、その願いが本気じゃないから」
「願うって、何に……えっと、神様? お祈りしたらいいの?」
 何を言っているのだろう。あたしは……この扉を開けたら、願いは叶うのか。あるいは、扉を開けることが願いなのか。
「そうよ。貴女の願いを祈って、心の底から……」
「願っています。でも、何も叶わない。願いなんて全然叶いっこないのに」
「それは、“願いが叶わない”と願うから、そっちの思いのほうが強いせいね。マイナスの願いが先に叶っているの」
「そ、そんなの……詭弁じゃないですか!」
「嘘だと思うなら疑うのを止めなさい。……叩けよ。さらば開かれん」
 謳うように鞠尾が言った。

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