美術館は、公園のかなり奥のほうにあった。ロココ様式の美しい建物。広大な庭園にもロダンの彫刻作品が置かれている。
 平日の昼間だからだろうか。
 それほどの混雑もなくゆっくりと彫刻を見て回ることができる。“近代彫刻の父”と呼ばれたロダンの作品群は、どれもすばらしかった。
 美術館の大きなフランス窓からは、庭園が見渡せる。
 差し込む陽の光が窓辺に置かれた作品に陰影を与えた。

「これが神の手よ」
 小声で鞠尾が教えてくれる。
 削り出されたままのような石の中から、陶器のように滑らかな白い彫刻された巨大な手がある。
 その中に男女がいた。今まさに、神の手の中から生まれいでるのだろうか。
 ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂にあったフレスコ画なら最初にアダムが生まれたが、この神の手からは、男女が絡み合う。
 男は、女の頭を抱え口づけするかのようにも見えた。

「神の手の中で、アダムとイブが愛し合っているみたいですね」
「愛し合う二人は、必ず引き裂かれてしまうのよ」
 隣に並んで観ていた鞠尾が言う。
「もともと人間って、男女が一つだったってお話、知ってる?」
「一人だったってこと?」
「太古の人間は丸い形をしていて、頭が二つ、手足は四つだったそうよ。人間があまりに仲睦まじいので神様は嫉妬して、その珠を二つに割ってしまったの。それ以降、人間は自分の片割れを探すのよ」
「神様なのに、嫉妬するんですか?」
「そうよ。禁断の実を食べたのも、アダムとイブが性行をしたことの比喩だとしたら、恋人同士があんまり仲よくしすぎると、離ればなれにされちゃう」
 そう言って鞠尾は、ふふっと笑った。
「天国の天使たちだって嫉妬するものね。“アナベルリー”ってポーの詩でもあったじゃない?」
 杏珠は、首を振った。その詩を知らない。

「天使も……嫉妬してしまうのかな」
「そうよ。天使も神も孤独なのかもしれないわ。もしかしたら悪魔もね」
「ずいぶん人間クサいですね。悪魔も天使も超越した存在でしょ?」
「もし、いるとすれば……ね。だって、神様って自分に似せて人を造ったんでしょ」
「鞠尾さんは、無神論者なんですか。それとも神様は存在すると思う?」
 そう言いながら、杏珠は大きな掌に乗せられた男女を見た。
 この彫像の神は、慈愛に満ちたものだと思っていた。本当のところは、どうなんだろう。
 見る人の気分で、印象はガラリと変わってしまうのかもしれない。

「今回の展示には、なかったけど、“悪魔の手”というのもあるわよ」
「怖いですか?」
「いいえ。でも、これとよく似ているわ。残念ながら、展示はされていないようね」
「ロダンといえば“考える人”のイメージがあるから、ブロンズ像を想像していました。まったくイメージが違うんですね」
「そうね。ブロンズが男性的なら、大理石はとても女性的でエロティックね」
「ブロンズも見てみたかったな」
 杏珠がそう言うと、すぐに鞠尾は、フランス窓を押し開いた。そのままテラスに出られるようになっているらしい。
「ブロンズ彫刻なら、庭園のほうにあるはずよ。地獄の門もあるわ」





 屋外に出ると、色とりどりの花と緑の中に、ブロンズ像がゆったりと配置されていた。自然の光を浴びて佇む彫刻群は、室内とはまるで違う表情を見せる。
 庭園の手入れはよく行き届いており、どこからか水の流れる音が聞こえた。
 ロダンの代表作である“考える人”は、いちばん目立つ場所に置かれていた。オリジナルは、世界中に21体あるそうだ。
 台座に乗った彫刻の下で鞠尾がおどけて同じポーズをとる。杏珠が写真を撮った。



 さらに庭園の奥に進むと、緑の木々の中に巨大な門がある。
 閉ざされた門の上にも“考える人”の姿が見えた。この作品は、もともと“地獄の門”の一部なのだと、鞠尾が言う。
「これは、イタリアの詩人ダンテの書いた“神曲”に登場する地獄への入り口なの」
「それじゃ……この“考える人”って、地獄のことを考えているのかな」
「そうね。地獄に堕ちていく人を見つめながら考えているのね……きっと」

 もしかしたら、この“考える人”は、この先を行くものを地獄に堕とすか、あるいは天国に送るか……それを考えているのかもしれない。
 門には、もだえ苦しむ人々の姿がある。両開きになっている扉の左には、筋肉隆々の男たちがいたかと思えば、まだ小さな子供の姿もある。
 その下に恋人同士なのだろうか。抱き合う男女もいた。
 右扉には、うつぶせに伸びあがるような女。その背中から仰向けなった状態で、女の胸を捕えようとする男の姿がある。

「それは“フギット・アモーレ”」
 アモーレ……愛?
 目の前の彫刻から目が離せないままの杏珠に鞠尾は教えてくれた。
「逃げ去る愛、消えゆく愛を意味するラテン語よ」
「この二人は、“愛”を手に入れることはできないんですね」
 男は、不自然な姿勢で女にすがる。背中合わせの女は、苦悩するかのように両手で頭を抱えている。
 男女を入れ替えてみれば、まるで自分みたいだ……杏珠は、そう思った。
 世間の人が当たり前のように手にしている“愛”を、自分だけが与えられない。

「決して手にすることのできないものの象徴かしら」
 鞠尾の言葉に杏珠は、振り返った。
 手にすることのできない……。
 足もとから崩れていきそうな絶望感。今にも泣きだしそうになる衝動。杏珠は、唇を引き結んで奥歯を噛みしめた。

「ねえ、この扉を開けてみたくはない?」
 鞠尾が何を言っているのか、一瞬、理解できなかった。
 ブロンズ彫刻の門が開くはずがないと思っていたからだ。
「この門はね。装飾美術館のために国家からの依頼を受けたロダンが作ったのだけど、完成することはなかったのよ。ブロンズに鋳造されたのもロダンの死後のことだったわ」
 鞠尾は、うっすらと笑いを浮かべる。

「だって、これ……触っちゃいけないものですよね」
「地獄の門は、これ以外に全部で七つあるわ。でもね。これだけは、他のものと違うの。特別な門よ。特別な人だけが触れるのよ」
「特別……って、なおさらいけないんじゃ……」
「いいのよ。さあ、いらっしゃい。これは押し開くのよ」
 差し招くようにして鞠尾は、門の正面に立つ。
 杏珠は、あわてて周囲を見回す。もし、学芸員に見つかったら叱られるのではないかと思ったからだ。
「これは地獄の門。行先はひとつよ」
 行先は、地獄……。
 門の後ろには、公園の木々が青々と茂っている。
 そもそも石膏の原型を用いてブロンズに鋳造された作品だ。開くはずがない。
 仮に門が開いたとしても、その向こうも公園でしかない。
 SF映画や子供向けアニメなら空間歪曲させるのだろう。
 それとも、この向こうが異世界に通じているものならば幻想ファンタジー

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