杏珠の赤裸々な告白が終わったころには、ミルクセーキの氷がかなり解けていた。その間、毬尾は静かにうなずきながら聞いてくれる。
 オネエのような口ぶりの鞠尾だが、ゲイバーのママたちのような斜め目線な話術を使わない。
 言葉を選ぼうとする杏珠に向かって鞠尾は、うまく話を誘導していく。
 一度、話しだすと言葉は魔法のようだ。
 心の奥底に秘めておいたすべてを涙と一緒に吐き出してしまう。
 他のどんな仲良しの女友達にさえ言えないことだ。親にも誰にも相談なんて出来ないと思っていた。
 気がつけば、かなり込み入ったことまで杏珠は、鞠尾に打ち明けていた。

 差し出されたハンカチで目と鼻を押さえながら夢中で話を終えて杏珠は、うつむいてしまった。まともに鞠尾の顔が見られない。



「ねえ、杏珠ちゃん。あたしが以前に言ったこと覚えているかしら」
「え?」
「今の杏珠ちゃんからは、蜜の匂いがするのよ。こんなこと言われちゃ気持ち悪いだろうけど、まるで雄を惹きつけるフェロモンのようなものを感じるわ」
 鞠尾が言うことは、にわかには信じられない。
 フェロモンを振りまくような色気過多ではなかったつもりだ。
「ごめんなさいね。でも、さっきの公園の痴漢もそれに誘われたのかもしれない。この感覚って男女関係ないわ」
「でも、妹には嫌われて……」
「それは嫌いという感覚よりも未知の感覚だからこそ、拒絶しようとするのだと思うわ」
「あ、あたし、どうして……今までそんなことなかったのに」
「何か、きっかけがあったはずよ」

 思い浮かぶのは、イリアのことしかない。
 そうだ。
 イタリアでイリアに出逢った直後から、すべてが変わって行った。
 スペイン広場でカップルの女性には睨みつけられた。写真を撮ってあげようとして怒られたのは初めてだ。
 路地裏でモロッコ人に襲われたこと。赤銅色の肌の男に出逢ったのも迦陵の変貌ぶりもイリアと逢った後のことだ。
 イドリースにいたっては、確実にイリアと何らかの関係がある。



「でも、そんなこと……信じられない……」
「それは、当たり前だと思うのよ。いきなり“アナタは今、フェロモンを振りまいているから、男女問わずに愛されてしまうのです”……なんてこと言われても」
「あたし、誰にも愛されたことなんて、ないです。だって……」
「落ち着いて聞いて」
「だって……そんなことあり得ない」

 そんなことあるはずがない。
 愛される? あたしが?
 周囲の空気を読み、嫌われないようにしているだけで必死だった。
 そんな努力もむなしく衣蕗からは、嫌われるどころか憎まれている。結局のところ、自分を殺してムダに我慢を積み重ねてきただけだ。

「決して、いいことではないわ。誰かれとなくむやみに愛されるのは」
 違う……と言いかけて、杏珠は口を閉ざす。
 鞠尾が言いたいのは、そんな表面的なことだけではなさそうだ。
「それまでは、普通の生活だったのに“あること”が引き金となって普通ではいられなくなる」
 氷の解けたミルクセーキを鞠尾は、分厚い唇をすぼめて吸い上げる。
 それを見ながら杏珠は、ぞくっと身を震わせた。
 身体の内側を何か判らない生き物が蠢くような感触に硬く目を閉じる。

「フェロモン香水だの、媚薬だのって、馬鹿馬鹿しいものがネットで売られていたりするけど、そんなもの信用する人なんてほとんどいないわ」
 頬に触れる暖かさに目を開けると鞠尾の手が杏珠の頬を包んでいた。
 いかつい顔に似合わず、その手は、ふっくらと肉厚で柔らかい。
「でも、杏珠ちゃんからは、蜜が滴る花のようなの。花は、受粉するために虫を呼ぶわけだけど、今の杏珠ちゃんにはそんなつもりもないのに、辛いことだと思うわ」

 思いがけず、鞠尾の顔が近くにあった。
 よく日に焼けた四角い顔立ちの中に、くっきりとした眉と落ち窪んだ眼。鷲鼻のせいか、欧米人のようにも見える。
 縦にも横にも大きくて、いかついのに、初めて会った時から柔らかい印象があった。たぶん、その窪んだ眼の奥に優しい光があるせいか。
 厚い唇も、太い首も壮年の男としての落ち着きを感じさせる。それでいて言葉づかいや物腰は、女性的で優しい。



「あ、ぶなぁ〜い!」
 突然、鞠尾がおどけて言う。
 意味が判らず目を見開く杏珠に、鞠尾は笑いかけた。
「さすがのアタシも、今ちょっと危なかったわ。思わずキスしたくなっちゃったもの」
 杏珠も、すぐに笑った。
 もしここに理莉がいたら、言いそうな冗談だった。

「ねえ、このあと、ちょっとアタシに付き合ってくれない?」
「あ、でも、鞠尾さん。お仕事中じゃ」
「午後から、休みを取っているのよ。この近くの美術館に行きたいんだけど、一人じゃつまらなくて」
 そういえば、公園の中に美術館があるらしい。園内の案内板にそんなことが書いてあった。
「何をやっているんですか」
「ロダンよ。今月いっぱいまでの会期なの。彫刻以外にもデッサンや、彼が収集した絵画や古代彫刻のコレクションもあるのよ」
「見たいです!」
「見たい? じゃあ、それ飲んだら、すぐに行きましょうか」
 おそらく鞠尾は、気を使ってくれているのだろう。美術品を鑑賞したいなら、一人のほうが集中できる。
 杏珠のために気分転換をさせようとしてくれているのかもしれない。

inserted by FC2 system