鞠尾が連れて行ってくれたのは、正確にはオムレツではなく、オムライスの専門店だった。
 卵をモチーフにした黄色と白で装飾した店構え。ヒヨコや鶏のディスプレイが並ぶ。若い女性客の多い店内に顎鬚で禿頭の大男はかなり目立つ。だが、杏珠が思うほどに周囲は気にはしていない。
 店員は、愛想よく壁際の大きなソファーのある奥まった席へ案内する。
 プロレスラーみたいな鞠尾の体躯には、ちょうどよかった。
 旧日本軍の指揮官みたいないかつい鞠尾だが、こんな可愛らしい店をよく知っている。
 杏珠が最初に感じた違和感も、いつの間にかすっかり周囲に溶け込んでしまう。
 そばにいるだけで不思議と癒されるようなそんな独特の空気を持っているからだろうか。

「杏珠ちゃん。卵料理好きだったものね。ここってミルクセーキも美味しいのよ」
 そう言いながら鞠尾は、メニューを差し出す。オムライスは、数十種類のソースが選べるらしい。
 杏珠が選んだのは、シンプルなトマトソース。鞠尾は、海老とアボカドのトマトソースだ。
 テーブルに運ばれたチキンライスの上に、ふわっとしたオムレツが載っている。
 ナイフを入れると、花が開くように半熟状態のオムレツが広がる。
 焼きたてのオムライスにそっと、スプーンを入れて、慎重に口に運ぶ。
 熱いので、なかなか口に入れられない。
 ずっと前にイリアが食べさせてくれたオムレツは湯気があがっていたのに、これほど熱くはなかった。
 あの時、まるで親鳥が雛にエサを食べさせるみたいに口移しされたのを思い出すと杏珠は、一人で赤面してしまう。
 冷静に考えたら、かなり変態じみている。
 巷のバカップルでもあんなことはしない。
 あえて言うならポッキーゲームか? いや違う。ただただ変態なだけだ。



 そんな杏珠の様子を見ながら鞠尾は、くすくすと笑う。
 自分の脳内を見透かされたようで杏珠は、いっそう顔が火照るのを感じた。
「本当に杏珠ちゃんは、猫舌なのね。美味しい?」
「すごく美味しいです。なんだか久しぶり……こんなご飯食べるの。あたしお料理ヘタだから……」
「杏珠ちゃんのお母様、どうかなさったの?」
 鞠尾の言葉に、スプーンを持った手が止まる。
 母のオムレツを思い出すと、たまらない気持ちになった。
 迦陵の気持ちが変わるまでは、母にも連絡できない。
 どんなに口止めしても、弟にかかれば母など簡単に杏珠のことを話してしまうだろう。
 何も言わずに家を出たことを父は、怒っているかもしれない。
 妹が一人暮らしをした時にも、いい顔をしなかった。せめて長女である杏珠だけは、そばにいてほしいと思っていたはずだ。
 口にこそ出さなかったけれど、そんなことぐらい察しがつく。
 両親のことを考えると、鼻の奥がつんと熱くなった。

「何があったの?」
 鞠尾は、皿の上のエビをすくいながら言う。
「突然、引き継ぎもなしで、電話ひとつで辞めるなんて……杏珠ちゃんらしくないもの。あの日、あたしたちがいない間に何かあったのね。社長や専務たちの様子がおかしかったわ」
 あの日。
 そう言われて、自分の手が小刻みに震えているのに気づく。
 豪華なリムジンに連れ込まれて、危うく襲われかけたのだ。イリアと同じ顔をした男に……。
 会社側は、それを止めるどころか、相手の男に加担した。
 勤続年数の少ない女子社員に相場より高い退職金は、その時の口止め料だったらしい。
 襲ってきたのは、イドリースだけではない。
 迦陵や衣蕗まで……。
 はては見知らぬ中年男だ。



「……あたしは、何かおかしいんでしょうか?」
「杏珠ちゃんぐらいの年頃の女の子は、そんなことをよく言うわね。自分は変わってるんじゃないかって……みんな同じこと考えてるものよ」
 鞠尾は、エビにトマトソースをからめながら口に運びながら言う。
「全然、普通なのよ。何も心配することないわ」
 手を止めて杏珠は、視線を空にさまよわせた。
 どう説明すればいいのだろう。
 よく考えてみれば、家を出て転がり込んだ友人たちにさえ、何一つとして本当のことを言えないでいる。
 一緒にイタリア旅行へ行った曜子や沙織たちにさえ、イリアのことを話せない。
 彼のことは、あまりにも現実離れしていた。
 まるで、欲求不満の女の妄想だ。現実と願望の境目が判らなくなっているだけだろう。
 そう思われることが怖かった。
 杏珠自身でも、他人事ならば同じことを考えたかもしれない。
 まして、その後に立て続けに起こった出来事は、ジェットコースターに乗せられていたかのようだ。
 見知らぬ男に突然、路上でキスされた。その後には、イリアそっくりの男や、弟妹たちに襲われる。
 ようやく再会したイリアは、変態だった。
 人前で杏珠の裸を見せつけたり、腕から触手が生えていたり、顔面が腐っていたり……。もし彼が医者なら、まずあの化膿した傷の手術をするべきだろう。
 包帯を巻いているだけでごまかせるものではない。院内感染の可能性もある。
 ここは先進国だ。あれほどの重篤な症状なら入院して処置するのが普通だ。
 それをしないのは……なぜだろう。
 あきらめているのか?
 あんな変態行為に及ぶのは、何もかもを放り出した結果なのか。
 冷静に考えると自分の身に降りかかっていることのすべてがバカらしいことのように感じられる。

 人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇……とは、誰の言葉だったのか。

 だからと言って、こんな荒唐無稽な話を信じてもらえるだろうか。
 いや、信じる信じない以前に、妄想だと言われるかも……。
 そんなことを考えかけて、ふとイリアの言葉を思い出す。

 ――いつも逃げ道を作って、本当の自分を見せない。



 鞠尾になら……打ち明けてもいいかもしれない。
 年齢も上で落ち着いている。その上、オネエだ。
 いや、この口ぶりで勝手にこちらが、そう思っているだけだ。実は違うのかもしれない。
 あまり込み入ったことを誰かに相談したりしたことはなかった。
 いつも皆に共感されそうな嫌われない程度のあたりさわりのない会話。
 仕事の話だったり、盛り上がりそうな恋愛ネタだったり……あたりさわりのないものばかりだった。
 これまで自分の身に降りかかったセクシャルな出来事を言えるものだろうか。
 鞠尾は、何と思うだろう。
 もし自分が男たちを誘っているのだと思われたら……あるいは、ただの自意識過剰だと言われるかもしれない。
 誰かに聞いてほしいと思いながら、言うのをためらう気持ちがせめぎ合っている。


 ランチタイムを過ぎて客も少ない。
 案内された席は、奥待っているだけではなく観葉植物が衝立のようになっていて、ちょうど個室のようになっている。
 食後の飲み物が運ばれ、もう店員が近寄ってこないのを確認してから杏珠は、重い口を開いた。

inserted by FC2 system