「よし! がんばれ、あたし!」
 自分を奮い立たせようとベンチから立ち上がりざま声をあげた。
 背後から笑い声が聞こえる。周囲に人がいないと思ったのだが……。
 杏珠は、独り言を聞かれた気まずさよりも、生理的な不快感に身体中から冷や汗がふきだすようだった。

「がんばるって……何をがんばるんだい? お嬢ちゃん」
 知らない男の声。
 産毛が逆立つような嫌な気分だ。聞こえないふりをして、そのまま行き過ぎよう。
 だが、いきなり肩を強い力で捕まれる。
「なあ、お嬢ちゃん?」
 首筋あたりに吐息がかかる。
 ぞっとして夢中で振りほどいた。
 走り出そうとした足に何かがぶつかる。たたらを踏んで何もない場所で前のめりに転んでしまう。
 背後で「あらら」という声が聞こえた。
 馬鹿にされているのをヒシヒシと感じて、ますます焦ってきた。
 立ち上がろうとすると、足元が何かにすくわれて尻もちをつく。
 とうとう背後の声は、吠えるような笑い声に変わっていた。
 悔しいが、とにかく今は、落ち着いて立ち上がろう。
 よろよろとベンチに手をかけてから、膝をついて立つ。
 生まれたての小鹿だって、こんなに無様ではない。

 膝や尻についた泥を払い落して、まっすぐに背を伸ばす。本当はさっさと逃げ出したかったけど、わざと余裕のあるふりをしていた。
 いつもの自分なら照れ笑いをしながら逃げ出していたところだが、そんな人の顔色を見るのは止めるのだ。
 振り返って、相手を睨みつけてやった。
 そこにいるのは、まったく見知らぬ男だった。会社帰りのサラリーマンのようだ。きちんとしたダークスーツ。髪を短くして髭も剃っている。
 ごく普通の中年男性に見えた。
 ただ、目つきがどんよりとして血走っている。
 相手が近づくにつれ、ふーふーと荒い呼吸音が鼻から漏れるのが聞こえた。気味が悪い。

 危ない……グズグズせずに早く逃げるべきだ。
 猛獣を相手にしている時のように後ずさりしながら、少しずつ距離を離していく。
 決して視線を合わせてはいけない。
 杏珠は、逃走経路を頭の中で組み立てる。
 公園の出口の場所は二か所あった。
 それとも、植込みをまたいで逃げるべきか。

 回れ右をして駆け出そうとした時、男が何かを蹴飛ばした。それが杏珠のふくらはぎに当たり、足が絡んでこけてしまう。
「おやおや……よく転ぶねぇ。お嬢ちゃん」
 男は、唇をまくりあげて笑顔を作っていた。
 さっきから、何もないところで転んでいたのは、この男が足でひっかけていたせいだ。
 男が、にやにや笑いながら、歩み寄ってきた。
 杏珠は、じりじりと後退する。いきなり男のほうが跳躍したかのように突然、目の前に立った。
「うわ、あぁっ!」
 慌てて杏珠も、後ろに跳び退こうとした。いきなり中年男は、杏珠の背後から腰をつかんだ。
「なっ、何を!」
 そのまま男は、無言のまま杏珠のスカートをめくりあげる。
 両手でがっしりと抱え込むようにして、自分のスラックスの前へ杏珠の尻を引き上げた。
「ひっ、や……っ!」
 男のスラックスの中で、大きく膨れ上がったものが、杏珠の尻にあてがわれる。ジーンズの分厚い生地を隔てても気持ち悪さに目を剥いた。
 声をあげようにも、恐怖で咽喉がパクパクと開閉するばかりで物も言えない。
 杏珠の無抵抗をいいことに男は、異様な感触のものをぐいぐいと押しつけてくる。



「てめっ! 何してやがるっ!!!」
 太い男の声が、その場に響いた。
 振り返るとそこには、禿頭のプロレスラーのような大男がいる。
「ま、鞠尾さん!」
 恐怖でこわばっていた喉が開く。
 鞠尾は、鬼のような形相で、杏珠の背後の中年男を睨みつけている。
 中年男は、あわてて杏珠の腰を手放した。
「なんでもないんだ」と、両手を広げて左右に振る。そう言いながらもスラックスの前が恥ずかしいほどに、大きくテントを張ったようになっていた。
「おらっ! 今すぐ警察にしょっ引いてやろうか!!!」
 鞠尾は、痴漢行為をした中年を蹴りあげた。見事に中年男は、その場で転んだ。
「おら、おらっ、おらぁ!!!」
 転んだ男は、立ちあがる隙を与えずに顔や腹を何度も蹴りつけられている。
 ひぃひぃと締め上げられる鶏のような声に、ようやく杏珠は、我に返った。

「鞠尾さんっ!!!」
 このまま放っておいたら、蹴り殺しかねない。
 杏珠が背中にしがみつくとすぐに鞠尾は振り返った。
「大丈夫?」
 険しい表情が急に優しくなる。
 大丈夫です……と答えようとして、尾てい骨あたりがギクンと痛んだ。思わず顔をしかめる。
 臀部には、異様なあの感覚が残ったままだった。



「久しぶり……って言っても、二週間ぶりぐらいかしら」
 いかつい外見とは裏腹に鞠尾は、女性的な話し方をする。
 かつて勤めていた画廊の営業社員で、なにくれとなく杏珠たちをかばってくれていた。
「あの……ありがとうございます」
「いいのよ。ところで、こいつ、どうしようかしら」
 鞠尾がこいつ……と言ったのは、殴られていた中年男だ。
 顔は、紫色に腫れあがり鼻血が垂れている。明らかな過剰防衛だった。
 鞠尾がジャケットの内ポケットに手を入れるのを見るなり男は、奇声を上げる。ものすごい勢いで立ち上がるとこけつまろびつ逃げ出す。
 もしかしたら、拳銃を隠し持っていると勘違いしたのかもしれない。
 杏珠も内心では、そう思った。

「救急車を呼ぶ必要は、なかったみたいね」
 悪びれるわけでもなく鞠尾は言った。
「杏珠ちゃんは、大丈夫? 救急車を呼ぼうかしら?」
 そう言いながら鞠尾は、口元を隠して笑っている。先ほどまでの悪役プロレスラーぶりは、すっかり影を潜めている。
「大丈夫です……救急車は必要ないみたい」
 苦笑いをしながら杏珠は、腰を押さえた。
「今、どうしているの? 理莉が心配してたわ」
「……あたし……何も言わないまま辞めてしまったから、あの……本当にごめんなさい」
「ねえ、時間はあるのかしら。お昼ご飯まだでしょ?」
 杏珠は、どうしたらいいのか迷っていた。
 あんなことがあったばかりで、まだ身体は震えてしまう。
 どうしても迦陵にされたことを思い出さずにはいられない。
「あの……あたし……今は」
 言いよどむ杏珠に対して鞠尾は、顔中をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「今だからこそ、一人で部屋にこもらないほうがいいのよ」



 今まで友人の家に閉じこもりきりで、息抜きのために近くの公園に出てきたのだ。化粧すら、ろくにできていない。
「この近くにふわっふわのオムレツを出すお店があるのよ。ご馳走するわ」
 オムレツと聞いて、急に空腹を感じた。
 時間は昼をすぎている。朝から何も食べていなかった。
 一日中、家にいるせいだろうか。あまりものを食べなくなってしまう。

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