イリアなら知っているのか。
 妹や弟がこれほどまでに、変わってしまった理由を……。
 イリアと衣蕗には、なんらかの繋がりがある。それだけは確かなのに、どうやって探ればいいのか判らない。



 できることがあるとしたら、一刻も早くこの家から出ることだけだ。
 きっかけは、イリアだったのかもしれない。
 だけど、今では自分という存在が、弟妹たちをおかしくさせてしまっている。
 もう猶予はできない。
 ベッドから立ち上がると、杏珠は、クローゼットから数点の服を引っ張り出した。
 手早くそのうちの一つを身に着け、残りはまとめて、衣類用の圧縮袋に押し込む。
 財布にクレジットカード。化粧品。パスポートと、それから……。
 必要最低限のものだけにしなければ、玄関を出る前に見つかってしまう。
 スーツケースなど論外だ。
 ショルダーバックにすべてを詰め込んだ。
 書置きを残すべきかどうか、迷ったが、“探さないでください”とは探してほしい人の書くものだ。
 今の杏珠は、本当に探されたくはない。
 説得力のあるいいわけなど、今の頭では思い浮かぶはずもなかった。とりあえず、後で電話をすることにしよう。

 問題は、いかに家族に知られないように、家を出るかだ。
 コンビニに行くなら、財布だけでいい。
 いくら小さくまとめたとはいえ、わざわざバックを持って出かけたら、変に思われるだろうか。
 ジーンズにTシャツ、薄手のカーディガンという恰好だから、そんな遠くに行くようには見えないはず……。
 玄関を出て、後はタクシーに乗るなり、最寄りの駅まで走るなりして、少しでもこの家から離れよう。
 友達の家か、あるいは、安価なユースホステルを探そう。後のことは、それから考えればいい。










 衣蕗から、イリアに関する情報を得るのは不可能だろう。
 それでも確実にイリアは、夢でも幻でもなく、現実に存在するのだ。
 どういういきさつなのかは、判らないが、衣蕗との接点がある。
 もしかしたら、杏珠にしたのと同じことを、妹にもしたのか?
 今、この瞬間まで想像もしなかった。
 まさか……そんなことあり得ない。
 否定しながら、胸の底がじりじりと焦がされるような思いがした。
 だから、あんなに衣蕗は、自分を敵視したのか。
 あれは、妹の復讐?

 考えれば考えるほど悪い想像しかできない……だめだ。考える方向性を変えてみよう。
 今の時点で残された手がかりは、断片的なものばかりだった。
 イリアが何者なのかさえ判らない。
 衣蕗だけではなかった。迦陵も言っていた。“アルジ”と……。
 主人。あるいは主ということなら、キリスト教で言うところの神のことだろうか。ユダヤ人はヤハウェと読まずにアドナイと呼ぶそうだ。その意味は“わが主”だったはず。
 ヘブライ語の合唱曲を歌う弟の姿を思い出す。
 あの時は、迦陵の専攻がオペラ科ではなくソロ科だから、そんな曲を歌うのだろうと思っていた。

 何か宗教的な儀式で、知り合ったという可能性も捨てきれない。
 どこから、探せばいいんだろう。
 四日ほど、友人の家に泊まったが、早くも迦陵に発見された。
 母だけには……と思って連絡を入れたのがまずかったのかもしれない。口止めをしておいたが、迦陵のことだ。うまく丸め込んだのだろう。
 友人からの知らせを受けて、今は別の友人の家に転がりこんでいる。ここもいずれ見つかってしまうのかもしれない。
 友人たちは、ストーカーから逃げているのだと思っている。警察に訴えるなり、公的なあるいは民間のシェルターに身をひそめるようにとも勧められた。
 近親相姦もDVの一つなのだろうか。でも、そんなことは人に話せるものではない。

 もし今の状況を……子供たちのあさましい姿を両親が知ったら、どうなるのか。
 そんなことは、考えたくもない。
 できることは、その元凶である自分自身がいなくなることだけだった。
 公園のベンチに座り込んだまま杏珠は、途方にくれていた。
 何をすればいいのか。
 落ち着き先を見つけて仕事を探すべきなのかもしれない。
 ただ、今は仕事よりも、イリアを優先したいのだ。
 どこにいけば会えるのか。この段階での手がかりは、全部で三つ。

 まず、病院。
 イリアと再会した場所だ。アザゼルと名乗る奇妙な男が、腕を骨折して運ばれた。
 ホテルに残された処方箋にも、同じ病院の名前が書かれている。
 あの時のイリアは、黒いキャソックとは、まったく対照的な白いドクターコートを着ていた。
 夢のように美しい姿で、いつも杏珠に遠さを感じさせた。
 超然とした美貌。冷ややかな視線……。
 あの紅い双眸に晒されながら、死ぬほど恥ずかしいことをされた。
 いや……そうではない。あさましく自分から欲しいとねだったのだ。
 心は少しずつ昂ぶって身体中の隅々まで彼の色に染まる。
 溶けて崩れそうになるような快楽と歓びを与えながらイリアは、冷酷に杏珠の精神と身体を標本のように切り開く。

 脳震盪を起こした時に見た幻ではなかった。外国人の女医は、確かにいると言う。
 そこで彼は“イルヤース”と名乗っていたそうだ。“イリア”というのは、衣蕗の言うように略称らしい。
 もうひとつは、ホテルだ。
 国内でも有数の高級ホテルで、ミシュランガイドの評価でも最高ランクだった。そこの常客らしいが、フロントでは個人情報を教えてくれないだろう。

 最後は、ヴァチカン。カトリックの教会なら、日本にもある。
 教会なら神父のことを教えてくれるかもしれない。
 探すなら、ホテルと病院の周辺の教会かもしれない。病院でイリアのことを教えてくれた女医は、すでにヴァチカンに帰ったと言っていた。
 いきなりイタリアへ渡航するよりも、国内の教会を探してみようか。
 また病院へ戻ってあの女医にイリアの所属するのが、どこの教会なのか尋ねてみてもいいかもしれない。

 すでに国内にいないとしてもパスポートがあるから、いつでも出国できる。
 それぐらいの蓄えは、まだ残っていた。
 ここでグズグズしているより、行動するほうがいい。
 今こそ“背骨”を通すべきだ。

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