「昔と変わらず、こうもあたしたちを惹きつけてしまうの。ねぇ……父なる創造主は、どうしてお姉ちゃんだけを愛したのかしら」
 父なる創造主……キリスト教?
 それとも、どこかの新興宗教にでも染まったのか。
 カルト教団に入信して、こんな言動に至っているのかもしれない。
 杏珠は、必死で考えようとするが、冷静に物事を考えられる状態ではなかった。
 自分の足で立つことさえできない。
「この世のすべてを創りだしておきながら、どうしてお姉ちゃんだけなの。えこひいきが酷すぎるわ」
「何を今さら……特別だからだ。杏珠は特別の存在なんだ……」
 迦陵の声が耳の奥で響く。

 ――判らない。判らないことばかりだ……。



「……どうして……衣蕗……」
 衣蕗は、眠たげに目を細めて杏珠を見下ろす。
「何?」
 木で鼻を括ったような言い方だった。
 見下されている……そう思うと、情けなく惨めでいたたまれなかった。
 だが、このまま弄ばれるだけなのは、辛すぎる。
 理由が欲しかった。

「なんで、こんな……宗教……」
 眠たそうだった衣蕗の眼が、大きく開かれる。
 しばらく杏珠を見つめていたが、やがて、身体を前のめりにして、けたたましく笑い出した。
 宗教と言ったことがそんなにおかしかったのか。
 ヒステリックな笑い方は、どこか狂気じみている。
 あまりに笑うので、ひきつけを起こしたように咽喉を掠れさせていた。
 不安になりながら杏珠は、迦陵に羽交い絞めにされたまま動けない。

「宗教ですって? 冗談じゃないわ。主は、あんたのせいで……」
 ようやく笑いをおさめた衣蕗は、口元を歪めて杏珠を見据えた。
 突き刺すような視線にたまらず杏珠は、身をよじらせる。
“アルジ”とは何のことだろう。
 それこそが、宗教集団の教祖なのだろうか。
 受け入れがたい話でも聞いてやることが、まずは大切なのだ……と聞いたことがある。
 今の杏珠には、そんな余裕など残ってはいない。
 ただ興奮しているのは、杏珠よりも衣蕗のほうだった。

「主の御姿をあんたは、その眼で見たのね。わたしたちには許されなかったのに、あんたは、あんただけは、いつも特別だったわ」
 衣蕗は、唇をわななかせながら、吐き出すように言う。
 彼女の怒りをじかに肌で感じる。びりびりと産毛が逆立つような気がした。
「それなのに……主はあんたのせいで……あんなむごい……むごいことを……」
 言葉を詰まらせ、衣蕗は泣きむせんだ。
 震えながら握りしめた拳を振り上げる。その手を迦陵が押さえる。
「あんたがやったも同然だわ!」
 迦陵の手を振りほどいて衣蕗は、杏珠を睨みつけた。
 むごい……?
 それがあたしのせいだと……。知らない。あたしは、誰かを傷つけたりなんかしない。
 でも……。でも、待って……。
 膿爛れて、生きながらその身を腐らせていた人を知っている。

 ――イリア。

 衣蕗の言うアルジが……“主人”という意味ならば、それはイリアのことかもしれない。
 彼は、いつも誰かに跪かれる存在だった。



「あんたがいなかったら、あんなことにはならなかったのに……全部あんたのせいよ! あんたさえ、いなかったら……あんたさえ」
「待って、待って、それってまさか……」
 興奮する衣蕗を押しとどめようと杏珠は、両手を差し伸べようとした。
 だが、手は虚しく空をつかむ。

「もう、主の右の眼は見えない……あんなに美しい御方が……あんたのせいよ。あんたのせいよ!」
 右目。
 片側に撒いた包帯……。眼窩から零れそうになっていたあの眼。
 美しい人……そう、彼は、現実の人とは思えないほど美しかった。あれほど、美しい人をあたしは、今まで見たことがない。
「まさか、それってイリアのことじゃ……」
 その名前を言った瞬間、衣蕗は唇を引きつらせた。
「覚えてないわけね。馬鹿な女。こんな女のために主は、尊い御身を犠牲にしたのよ」
「馬鹿は、お前のほうだ。彼女を貶めることで、主を否定することになるのを判っているのか」
 それまで無言だった迦陵が口を挟んだ。
“彼女”と、そんなふうに呼ばれたのは、初めてだった。
 やはり、迦陵や衣蕗にとって自分は、姉ではなくなってしまったのか。
 イリアを中心にして、何かが起こっている。
 どうして、こんなことになったのか。どこから歯車は狂ってしまったんだろう。

「関係ないわ。この女のほうが、わたしよりも先に生まれたというだけの話だわ。ただ、それだけのことで、主はこの女を大事にするのよ。わたしのほうが先なら、わたしなら!」
「主って……主って、やっぱりイリアのことなの」
「そんな軽々しく呼ばないで、あの御方のことを……よくも、どうしてあんたが!」
「衣蕗こそ、なんでイリアを知ってるのよ」
「いい加減にして! そんな呼び方しないでよ。あんたって、あんたって本当に!!」
 悔しさのためか。衣蕗は声を詰まらせた。
「あの御方って、本当にイリアのことなの。イリアはヴァチカンの……!」
「あんたって、虫唾が走るくらいイヤな子だわ。あの御方のことを知ってるのが自分だけだとでも思っていたの。あんたなんかが、むやみにお呼びできる御名じゃないのよ」
 普段は、甘ったれたような間延びした話し方をする衣蕗が、まるで別人のように口早に言い立てる。
 平常なら、興奮する衣蕗を宥めようとおとなしく言うとおりにしたかもしれない。
 今は、イリアの名前を口にすることで杏珠自身も昂ぶっていた。自分の知らないイリアを知っている衣蕗への嫉妬があった。

「なんで衣蕗が知ってるのよ。イリアはどこにいるのよ」
「あの御方をそんなふうに呼ぶなんて、とんでもない女ね。いいえ、違うわ。メス豚だもの。豚に人の知能なんてなかったわね」
「イリアがそう呼べって言ったのよ!」
「そんなはずないわ。このメス豚が! 豚は豚らしくぶーぶー鳴いてなさいよ」
「イリアは、どこなのよ!」
「知るもんですか。知っていたって、豚に教えてやるつもりはないわ!」
「教えてよ。イリアはどこにいるの」

 高い音とともに、いきなり頬が燃えるように熱を感じた。
 さらに打ちすえようとする衣蕗の腕を迦陵がつかんで捩じりあげる。
 頬を平手打ちされた杏珠だけが、呆然としていた。
「よせ!」
 迦陵は、杏珠を背にかばう。
「よくも、よくも……!」
 腕をつり上げられながら衣蕗は、獣のような唸り声を上げた。まるで悪魔に憑りつかれたかのように暴れる。
 杏珠は、凍りついたように動けなくなっていた。

「杏珠……もう、何も考えるな。お前はそのままで……!」
 迦陵は、衣蕗の腕をつかみあげたまま、振り返って叫んだ。
 解放された杏珠は、頭を抱えた。
 むっとする男の臭いが、鼻をつく。
 冷静に考えることなど、不可能だ。
 だからといって、このまま、何も判らないままではいられない。
「考えるなって、どういうことなの。迦陵たちだけが知っていて、あたしだけが知らないことが多すぎる。なんで、どうして……」
 衣蕗のヒステリカルな反応が感染したように、杏珠もひどく興奮していた。

「あの御方がそれを望んだんだ」
 迦陵が押し付けるように言う。
「主が望んだのはそんなことなの。それならなぜ、このメス豚を“本来の姿”にする必要があったの。あんただって、この豚のニオイに惹きつけられたんじゃなかったの」
「お前だって同じだろ。主から与えられた“力”だ。杏珠だけじゃない」
「そうよ。淫蕩な血を……ね。だから、“男たち”は、わたしに夢中になったのよ。でも、このメス豚は違う。ずっと護られてきた」

 ああ、そうだ。
 昔から、衣蕗の周囲にはいつも男の子たちが群がっていた。
 舌ったらずのしゃべり方も、無邪気な表情も、ちょっと拗ねて見せる姿や、おねだりも本当にかわいくて、あたしはいつも衣蕗の言いなりだったんだ。
 だから、恋人を奪われても、腹が立つよりも納得してしまうところが大きかった。

 なのに、どうして……。イリアだけは、違う。
 彼だけは、衣蕗に触れてほしくない。
 それなのに、衣蕗はあたしの知らないイリアを知っている。衣蕗だけじゃない。
 迦陵も、知っているんだ。
 あたしだけが、あたしだけが知らない。
 どうして。



 シャワーの水音が、遠くで聞こえるような気がした。
 でも、それは杏珠の頭上から落ちてくる水で、今、杏珠はタイルの上に座り込んでいる。
 床の冷たさも、落ちてくる水の感触さえ、何も判らない。




 また新たな涙がこぼれた。
 溢れた涙はとめどない。
 杏珠は、声を上げて泣いた。
 そのそばで、衣蕗が勝ち誇ったように笑う。
 なぜ、笑われているのか判らない。
 衣蕗は、泣きむせぶ姉の姿がいかにも楽しくてしかたがないと言ったように、高い声で笑い続けていた。
 その笑い声は、まるでイリアと別れたとき、最後に聴いた女の声に似ているような気がした。



「優しくされることだけを望んでいるなら、その愛が冷たく見えるのも仕方のないことね」



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