「う……っ、えっ……え」
 気がついたら声を上げて泣いていた。
 恥ずかしいとか悔しいとか、今の状況がどうかなんてことさえ、どうでもよかった。
 もう、このまま、どうなってしまってもいい。
 死ぬこともできない――イリアは、死なせてくれなかった。
 生きていることにさえ、意味を見いだせない。



「……杏珠!」
 さっきまで、ただ乱暴に抱きしめるばかりだった迦陵の手が緩んだ。
 その隙に逃げるべきなのだ。でも手足は萎えたように動けない。
「杏珠。違うよ。……杏珠は」
 胸をつぶさんばかりに強く抱きしめていた手が、そっと髪を撫でる。
 何をしているんだろう。こいつは。
 今さら、そんなふうに優しくされても、どうしようもない。
 涙は、とめどなく頬を伝う。
 何が哀しくて、悔しいのかさえ、考えられない。



「あぁ……泣かせちゃった。お兄ちゃんが、お姉ちゃんを泣かせたぁ」
 衣蕗が笑いながら囃し立てる。
「うるさい。お前、邪魔だよ」
「何よぉ、押さえろとか命令ばっかりして、冗談じゃないわ。あんたこそ邪魔なのよ」
 二人の会話を聞きたくない。うつむく杏珠の顔を、衣蕗の手が捕えた。
「見せて……杏珠ちゃんの顔」
 涙に濡れた頬を両手で包み込むようにして持ち上げながら衣蕗は、歌うように言った。
「くっふふっ……やっぱり可愛い。わたしのせいで泣いてる杏珠の顔が見たくて、イジワルばっかりしたわ。子供のころから……ずっとね」
 杏珠と並ぶと、わずかに衣蕗のほうが背が高い。
 少し上の高さから首を傾けるようにして衣蕗は、杏珠の唇に自分のそれを押しつけた。

 いきなりの口づけに杏珠は、眼を見開く。
 ぬるりとした舌先が、杏珠の下唇をかすめた瞬間に迦陵は、唸り声をあげて杏珠を衣蕗からひったくった。
「あん!」
 舌を伸ばしたまま、衣蕗が甘えた声をあげる。
「ふざけるな。触るなって言っただろが!」
「何よ。杏珠は、男でも女でも、どっちでもいいでしょ?」
「いいわけないだろうがっ!」
「そうかしら。敦武は言ってたわ。杏珠は、ママ人形抱いてるみたいだって。起こすと目を開けるって、あのお人形よ。すごく可愛いけど、何の反応もないんだって。あるとしたら、あらかじめ決められたパターンを繰り返すばっかり。だから、簡単にわたしの誘いに乗ってきたのかしら。馬鹿ね。男って……」
 杏珠を傷つけるのが嬉しくてたまらないといった様子で衣蕗は、しゃべり続ける。
「あら、そんなに自分が不感症だったことがショックだったの? 仕方ないわ。だって杏珠には、背骨がないんだもの。芯棒を抜かれた人形と同じよ」
「衣蕗!」
 低く迦陵が吠える。
「ねえ。わたし、お姉ちゃんが泣く顔が好きよ」
「黙れ」
 杏珠の知らない迦陵の声。
 どんなに詰ってもひどいことをしても、こんな低い声を発したことはなかった。
 迦陵と衣蕗には、杏珠の知らない何かがある。
 その中で判ることがあった。
 衣蕗は、自分を憎んでいるということだ。
 なぜ……。
 いつから、これほどまでに距離ができてしまったのか。



「もう……好きにすればいい」
 叫び過ぎたせいだろうか。喉がかすれた。
 どんなに叫んでも助けなどない。
 そんなことは、よく判っている。
 判っているつもりだったのに……。いつも、どこかで期待していたのだろうか。
 素っ裸のまま背後から弟に抱きしめられて、自分で自分を支えることもできない。

「どうせ、人形と一緒なんでしょ。どうにでも好きにすればいいじゃない」
 涙は枯れた。
 もうこれ以上、泣きたくはない。
 はらわたが煮えくり返るような、吐き気がしそうなほどの苛立ち。
 自分の中に屈辱と怒りとが、重苦しく沈殿していく。
 目の前の弟妹たちよりも自分自身に腹が立つ。
 こうなったのは、自分の責任だ。
 気づかないふりを通してきた。
 迦陵と衣蕗。この不安定な二人に対して、いつも逃げ腰だった。
 正面から向き合おうとしてこなかった罰なのかもしれない。
 こんなに追い詰められるまで、何もしなかった。
 でも、今となっては、どうすればよかったのか……などと、考えても仕方がない。
 もはや修復は不可能だ。



「だけど……」
 湯気の上がる浴室の中で杏珠は、弟妹を睨みつけた。
「絶対に許さないから、信じてたのに……。こんな裏切り……許さない。死んでも許さない」
 気強く言ったが、心臓の鼓動が大きく頭の中に響く。顔が熱っぽく手足が震える。
 衣蕗は、大きく目を見開いたが、咽喉を鳴らすようにして笑った。
「面白いこと言うのねぇ……でも、杏珠にそこまでの執念なんてあるのかしら」
 衣蕗の声が、ひどい耳鳴りで聞こえにくい。
「あんまり長続きしないのよ。人を憎むことも愛することも……途中で飽きちゃうのかなぁ。一時的に熱くなるけど、すぐに冷めちゃうの」
 そう言って衣蕗は、眼を細める。
「ねえ、杏珠って人がいいのかしら。ちょっと違うわね。憎しみきることに疲れてしまうのよ。馬鹿みたぁい」
 語尾を甘く伸ばすいつもの衣蕗の口ぶりだが、言葉には毒がある。
 誰が馬鹿だ……!
 言い返してやりたいのに、喉が開くだけで声が出ない。
「ちっとも変わらないわぁ……うんん。外見こそ“変わった”けど、中身はそのままねぇ……」
 変わった?
 それは、妹たちだ。可愛かった妹や弟は、まるで知らない人間になってしまった。
 かつては、家族だった。
 小さいころは、いつも三人で仔犬みたいにじゃれて、おやつやゲームの取り合いをしたり、漫画を回し読みしたり……ケンカもしたけど、それ以上に仲良しだった。
 そう思っていたのは自分だけだったんだろうか。
 口ケンカで負けそうになると、泣きながらも手を出すのは、いつも衣蕗だった。小さいころから、その特徴的な甲高い声と、甘い舌足らずな喋り方では思ったように口が回らない。ついつい手が出てしまうのだ。
 子供のころから口ではなく腕力になると、三人の中でいちばん年上の杏珠が弱かった。お姉ちゃんだから……と自分を押さえるせいだ。
 今は、違う。
 おそらく持てる力のすべてを出し切っても、迦陵はもちろん、衣蕗にも敵わないだろう。
 崩れてしまいそうなほど、消耗していた。
 憎むことに疲れるというなら、今がまさにそれだ。
 どうにでもなれ……そんな投げやりな気分になってくる。

「どうして御使いたちは、昔のお姉ちゃんを醜いと言ったのかしら。とても完璧だったわ。これ以上はないというほど美しかったのに……。ねえ」
“御使い”という普段では使い慣れない言葉を衣蕗が口にした。
 白い羽根のある美しい存在。抒情的で、甘ったるい、メルヘンチックで夢のような……。
 だが、夢といえば確かにこれは悪夢だ。
 現実離れした現実。あり得ない。ありえない事態が今、ここで起こっている。
 小さいころには、三人で一緒に入ったのと同じ浴室で……。



 どうして、あたしだけが、こんな目に合うの。
 あたしが何をしたっていうの。





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