全身から力が抜けるような気がした。
 自分の考えが、あまりにも甘いことに改めて気づかされる。
 必死にもがくが、どうしても逃げられない。まるで万力で挟み込まれたみたいだ。
 あんな華奢ではかなげに見えた迦陵が、こんな力を……。
 男というものに対して、たかを括っていた自分の愚かさを呪った。
 前に襲われたときみたいなことには、絶対にならないつもりでいたのに。
 これまで用心に用心を重ねて、注意深くやり過ごしてたつもりが……よりにもよって、こんな状況で鉢合わせするなんて!
 わが身の軽率さに涙が出そう。だが、泣いている場合ではない。
 泣くのは、後でもできる。

「最近、ずっと俺を避けていたと思ったら……また、こんな」
 そう言いながら、迦陵は杏珠の首筋に唇を押しつける。
 生温かい感触に総毛立った。
 自由になる両手足を夢中で動かして抵抗するが、濡れた床で滑ってしまい逃げるどころか立っていることさえままならない。
「は、は、は、放しなさいよ。大声あげるわよ」
 自分では落ち着いて言ったつもりだったが、情けないほど声が震える。
「散々、大声で騒いでいたくせに。呼んでも誰もいないことに気づけよ」
 確かに帰ってきたときには、声をかけたけど返事がなかった。
 玄関のドアの鍵は閉まっている。
 浴室の扉は開けっ放しにした浴室のドアから、こもった湯気が、洗面所へと逃げるのが見えた。
 誰かが帰ってきたら、すぐに、この事態は発覚する。

 知られてはいけない。
 でも、このままでは……いったいどうすればいいのか
 どうやってこの場を乗り切ったらいいのか。もう、これ以上、冷静な考えなどまるで思いつかない。

「最近、食事も外食ばっかりで帰るのは深夜だし、あからさまに俺を避けてたよね」
 まるで握りつぶすように乳房を揉みしだきながら、迦陵が言う。
 声には、怒りが混じっている。理不尽な怒りの矛先を向けられて、どうしろというのか。
「あ、当たり前でしょ……こんなこと……するから!」
 胸をつかむ手とは、別の手が喉元を撫で上げる。
「こんなことばっかりしてるのは、杏珠ちゃんのほうだろう」
「なっ、何、言って……」
「全身にキスマークつけて、どんだけやってたんだよ」
 迦陵が撫でているのは、ほとんど消えそうになっている鬱血の痕だろう。
 乳房や腹、臍のあたりから、さらにその下にかけて……触れられるだけで、ぞわっと悪寒が走るようだ。
「でも、かなり薄くなってるね。最後にそいつと“やった”のはいつ?」
「あ、……いっ、いやっ!!」
 怒鳴る暇もない。いきなり迦陵がショーツの中に手をつっこんできた。あわてて両足を擦り合わせて侵入を防ぐ。
 だが、そんなことしても、男の手を阻むことにはならない。
「いやっ、やだっ!」
 恥ずかしさに思わず目をつむった。虚しい現実逃避だ。もはや、それ以外に抵抗することができない。
「見せてよ。ここも……誰にされたんだよ」
 耳もとで囁く声は優しいが、ぞっとするほどの冷たさをはらんでいる。



「だ、……誰にもされてない……」
 とっさに嘘をついた。
 もし、ここでイリアのことを知られたら、迦陵はどうするつもりなのか。それを考えると恐ろしすぎて……あまりに判りやすい嘘でも言わずにはいられなかった。
「嘘だろ?」
 耳に吐息を吹き込むように、迦陵が囁く。
 喉がひりつく。強張りそうになる舌を必死で動かした。
「う、嘘じゃない……虫に刺されて……」
「虫だって?」
 迦陵の声のトーンが変わった。
 女が男の浮気現場を見ても“違う!”と言われれば、どんなに言い逃れのできない状況でも信じるのだと聞いたことがある。その逆はあるのだろうか。
 夢中で杏珠は、何度もうなずいた。
 唾液を飲み込む。
「そんな暇ない。仕事と家の往復だけ」
 イリアと一緒にいた時間は、あっけないほど短かった。
 気の遠くなりそうなほどの時間だったような気がしたのに、現実には一時間にも満たなかったのだ。
 現実感のなさに杏珠は、イリアの存在さえも疑いたくなったほどである。
 あの日は、会社に戻らずそのまま自宅に帰った。
 母には早退したのだと言って、そのまま部屋で寝ていた。嘘は言っていない。



「そうか……仕事を辞めてから、毎週金曜日のイタリア語教室。月曜から木曜は居酒屋。土日はケーキ屋のバイト。まるっきり休みなしだったね」
 耳朶の柔らかい部分に歯を当てながら、迦陵が言う。
 震えが止まらない。
「なんでそんなこと」
「携帯のGPSですぐに判る」
 まるで大蛇が獲物を締め上げるみたいに迦陵は、巻きつけた腕を絞める。
「ス、ストーカー!!」
「なんとでも、言ってくれよ。俺は杏珠ちゃんだけを愛してるんだから」
 そう言いながら迦陵は、最後に残ったショーツに手を潜り込ませる。
「あっ、やっ、やだ。止めてっ!」
「いやじゃないんだろう……胸を触られただけで、こんなに濡らしてるくせに」
 固くとじ合わせた足の間に指が差し込まれる。
「ひうっ!」
 知らない手。イリアじゃない男の手は恐怖と嫌悪しかない。
 夢中で、迦陵の腕を引きはがそうとする。爪をたてた。それでもびくともしない。
 恥丘をざわりと撫でられる感触。薄い毛が指先で絡められ、中指の腹で縦の筋を何度も擦りあげながら、なおも奥へと入り込んでくる。
「くぅ……っ!」
 くちゅっといやらしい水音がした。
「ほらね」
 迦陵が咽喉を鳴らして笑う。

「いやっ!」
 思わず腰を引くと、臀部に固く熱いものに当たった。
「お願い。止めてっ! いや、いやだぁ!!!」
 たまらなくなって杏珠は、叫んだ。
 もうだめだ……と思ったら、涙が溢れだした。
 何度も心の中で母を呼ぶ。イリアもいない。
 助けのこない絶望的な思いに杏珠は、泣くしかできなかった。



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