天気予報では、雨は土曜日の早朝から降り出すはずだった。
 イタリア語の教室を出たときには、まだ雨は降っていなかったはずだ。講師に傘を勧められたのにもかかわらず、その好意を断ってしまったことを後悔していた。
 家に電話して、迎えにきてもらおうかとも思ったが母は留守だ。お気に入りの韓流スターのコンサートがあるらしい。
 母がいない日は、できるだけ家に帰るのを遅らせた。迦陵と顔を合わせたくない。
 今夜、迦陵は友達の家に泊まるのだと母が言っていた。
 衣蕗は、ときどき実家に戻ってくる。どういうつもりなのかは、さっぱり判らない。両親もそれについては何も言わなかった。
 もし、迦陵のいない今日に衣蕗と話ができたら……。ちゃんと向き合おう。
 何かの誤解があるのかもしれない。きっとそうだ。女同士なのだから、きっと話せば判り合える。
 ダイジョウブ。きっとなんとかなる。衣蕗は、大切な妹で、なんでも打ち明け合ってきた親友みたいな存在だ。
 そう思ったら、少し気分が楽になった。
 とはいえ、杏珠は、駅から自宅までの距離を考えうんざりする。
 タクシー代も今はもったいない。
 まあ、帰ってすぐに風呂に入ればよいのだ。
 杏珠は、思い切って土砂降りの雨の中を駆け出して行った。

 靴は浸水して踏み込むたびに、ぐしゅぐしゅと中敷から水が噴出すようだった。
 スカートはたっぷりと水を吸い込んで腿にまとわり、走る杏珠の足取りをさらに重くする。
 ようやく自宅の玄関にたどり着いたとき、杏珠は頭から爪の先まで、ずぶ濡れだった。
 体は冷え切り、歯の根が合わない。
 玄関で水溜りを作りながら、スカートを絞りつま先立って廊下を歩く。
「ただいま」と声をかけたが返事はない。衣蕗は帰っていないらしい。
 このままでは風邪をひいてしまう。とにかく熱い湯に浸かりたかった。
 洗面所に飛び込み、あわただしく濡れた服を引き剥がすように脱いで、洗濯機に放り込む。下着だけになって、バスタブの給湯スイッチを入れるために浴室のドアを勢いよく開く。白い温かな湯気が広がる。
 冷え切った肌に、蒸気が心地いい。――あれ、まだお湯入れてなかったのに。
 次の瞬間、我が眼を疑った。





 湯気の向こうに、よく知った顔がある。それと見なれない男の裸。
 服の上からでは判らなかった厚い胸板。ものすごく筋肉質というわけでもないが均整のとれた上半身。小さいころよく一緒にお風呂に入っていたころは、もっと華奢だったのに。

 ……なんで?

 不毛な疑問が杏珠の中に生まれる。
 イリアさえ、まだ見たことないのに……。なんで他の男の全裸を見せられなきゃいけないの。
 それも身内? なんの罰ゲーム?
 穏やかな細い声が笑う。いつもの聞きなれた弟の声だ。
 思考がそこで止まる。

「なかなか大胆だね」
 長い前髪や広い肩。がっしりとした腕から指先へ水滴がしたたり、ぽたぽたとタイルの上に落ちている。
 見るつもりはなかったのだが、全体として目の前のものを見てしまう。
 これがテレビ画像ならモザイクが入っている。PCなら有害サイトアクセス制限があるはずだ。
 だが、生身の人間にはそんな便利なフィルタリングはない。
「あんまり凝視されると、さすがに困るよ。杏珠ちゃん?」
 まったく困ったふうでもない。むしろ上機嫌といった迦陵がそう言った。
 タオルや手で隠そうともしないどころか、見せつけるように腰を突き出す。そのグロテスクなものを見た瞬間、ようやく我に返った。

「ひっ、ぎゃああああああぁぁぁあっ!!!」
 反射的に悲鳴をあげた。
 湯気でこもった浴室の中で、自分の声が反響する。
「うるさいよ」
 回れ右して逃げ出そうとしたが、背後からラリアットをかまされた。
「ぎゃん!」
 首もとに腕の内側を打ち当てる打撃技である。
 本気で入れたわけでもないだろうが、けっこうダメージは大きい。首を抱え込むみたいにして、そのまま浴室の中へ連行されそうになる。
「放して、放して、いやっ、いやああっ!」
 こちらも下着姿だ。何をされるか判らない。杏珠は、浴室のドアにしがみついた。
「大声だすなよ……耳が痛い」
「なんで。なんで、あんたが!!」
「自分の家の風呂に入っていて何が悪い。狭いところで暴れるなよ」
「判った。判ったから放して、触らないで!!」
「触るなって……あいかわらず無茶を言うな」
 背後から羽交い絞めにされたまま、片方の手が杏珠の胸をつかむ。ブラの脇から手が挿し入れられた。
「なんっ!」
 下着の中で、男の手がパンをこねるみたいに揉みしだく。すべての指先で揺すりたてられ、固くそそりだった先端が下着からはみ出す。
「こんなうまそうなの見せつけられて、何もしないなんてあり得ないだろう?」
 迦陵は、そう言って意地悪く嗤う。
 露出した乳首が指の間に挟み込まれて、強く扱かれる。
「あぅ……っ!」
 思わず声が出て、あわてて口を閉じる。
 杏珠の反応に気をよくしたらしく迦陵は、いっそう乳首を攻めるように指先を使って絞り上げる。
「自分から裸で飛び込んできて……ここ、もうコリコリだよ。こんなに固くして感じてるの? 杏珠ちゃんってばエロいなぁ」
 寒くて、そうなってるだけだ。ただの生理現象にすぎない。
 コリコリって……エロい同人誌か?!
 文句を言いたいのに、口がぱくぱくするばかりで言葉にならなかった。
「この胸、また大きくなったよね。杏珠ちゃんは、まだ成長期なのかな」
 指の腹で乳首を執拗に擦られ、爪が立てられる。
「やぁ、痛い、痛いってば!」
「成長期には、こうやって刺激を与えてやると大きくなるんだよ」
「もう、そんなのとっくに終わってる!!!」
 そもそも、その刺激ってのは、好きな人に揉まれてのことだ。
 あんたじゃ話にもならない。そう言いたかったが、胸を中心にして痺れるような感覚に杏珠は身悶えしていた。

「大丈夫だって、杏珠ちゃんのおっぱいを育てたのは俺だよ」
「な……そ、そんなことされた覚えないっ!!」
「やっぱ、気づいてなかったんだ。油断しすぎだな」
 自分の家で油断できないって、戦国時代か。
 背後で、くすっと笑う気配がする。
「ずっと昔から……杏珠ちゃんが、リビングで寝てるときとかさ。こっそり揉んでた」
 背筋から産毛が、逆立つような気がした。
「最初は、服の上からだったんだけど、そのうち直接触ったり摘まんだりしてたら、これだけ立派に成長したんだよね」
 ブラジャーのホックが外され、二つのふくらみがこぼれる。
「あぁっ! やだっ!」
 布一枚で守られていた胸元があらわにされ杏珠は、身をよじった。その抵抗がかえって、乳房をいやらしく揺らしてしまう。
 濡れそぼった白い胸の先端は、淡い花びらを置いたような乳輪の中心で、ツンと勃ち上がっている。
 迦陵が息を呑む気配が判った。
「いやだとか言いながら、まるで俺のことを煽ってるみたいだよ。杏珠ちゃん」
 興奮のためか、声が微かに掠れている。
 その事実に杏珠は、頭の中が真っ白になりそうだった。
「そんなことないっ! 放してよ!!」
「杏珠ちゃんの乳首……さくらんぼみたいに可愛いのに、すごくエッチだよ」
 胸の形を丸く撫でまわしながら、杏珠自身に見せつけるようにして揺すりたてる。
「小さなブラで押さえつけられているわりに、けなげに育っちゃってさ。Cじゃないよ。EかFぐらいかな。アンダーは60でもいいくらいだしさ」
 なんで、下着のことまで知ってるんだ。まさか、そんなものまでチェックしていたのか。
 ただ、そのサイズでアンダーが60はない。スレンダーな衣蕗ならともかく。
 不意にとんでもないことを思い出した。

「そういえば、よく下着がなくなったことがあったけど……まさか、あれも?」
 一瞬、胸を触っていた手の動きが止まる。
 問い詰めてはいけなかったのか。
 杏珠の葛藤と裏腹に迦陵は、あきれたように言った。
「今まで、気が付いてなかったことに驚いたわ。どこまで鈍いんだよ」
「う、嘘……?」
 まさかと思いながらも、隠そうともしない迦陵の言葉に背筋が凍えるような気がした。
「嘘じゃないさ。俺の晩のおかずだから」



 変態はイリアだけじゃなかった。
 家にもいた。



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