おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。

コリントの信徒への手紙一 7章17〜24節










「いらっしゃいまシタよ」
 それを聞いた瞬間、夢の続きかと思った。
 だが、イリアがいないのに白昼夢をみるはずもない。
 もっとも、イリアが見せる夢は淫夢だ。

「長い金髪の神父さんでしョ。目に包帯シてるけどキレイだった」
 愛想よく答えてくれたのは、受付の事務員ではなかった。
 たまたま病院の玄関ホールを通りすがった外科の医師らしい女性だ。
 三十前後ほどの女性で白衣に黒縁のメガネ。髪はひっつめにしている。そばかすの浮いた彫の深い面差しをした奇麗な人。
「もしかして、きみも彼の愛好者?」
 背の高い女医は、少し腰をかがめるようにして杏珠の顔を覗き込んできた。
 愛好者……?  もしかしたら、ファンって言いたいのかしら。
 でも、ファンって……まるでアイドルみたい……変態のアイドルか。イヤなアイドルだわ。
 あの強面の神父を思い出して、杏珠は露骨に眉間に皺を寄せた。
 最後の手がかりである処方箋にあった病院に来てみたが、やはり受付では「お尋ねの医師はおりません」と突っぱねられた。
 冷静に考えれば、赤い隻眼だとか、長い金髪だとか……あまりにも現実離れしている。
 でも、せめてもう少し、なんでもいい。手がかりがないかとしつこく詰め寄っていたのだ。
 あやうく受付で騒ぐ不審人物として、警備員を呼ばれそうになった。
 偶然、この女医が通りかかってくれたのは、とてつもない僥倖だったと思う。



「イルヤース……。ヴァチカンの神父さんでスよ」
「ヴァチカンの神父?!」
 杏珠は、外科医に飛びつかんばかりだった。
 受付の前から少し離れたとはいえ、ここは病院の正面玄関だ。
 往来する人々が何事かと振り返っていく。
「神父さんでも医学博士ってけっこウ多いの。知らないかね?」
 初めて聞く話だった。
 女医はだんだんと砕けた話かたをしていた。言葉に独得のイントネーションがある。
 外国の人なのだろう。
「それで、その神父さんは、今どちらにいらっしゃるんですか」
「ヴァチカンにお帰りになったです。本当にちょっとの間しかいらっしゃらなかったのに、キミみたいにあの先生は誰ですか……って、若い女の子が来テね」
 そう言って、女医はくすくすと笑う。
「でも、彼は、まったく日本語がダメなの」
 ここでもイリアは、日本語を話せないふりを通しているらしい。イドリースもそんなことをしていたのを思い出す。
「そのくせ、チャンと布教活動はするの。とっても優しいヒトでしたね」
 ――優しい……ってどこが?
 変態だ。そこまでするかって言うほどド変態だ。
 脳内で、変態行為を思い出す自分に、一人で赤面してしまう。我ながら馬鹿……。
 そんな杏珠の様子を見て女医は、何やら一人で納得したようにうなずいた。
「きみも、クリスチャンになろウと……思ったのですね」
「……はあ、お世話になった方だったので……」
 うまい言い訳が見つからず、相手の言葉にそのまま乗った。
 あの人。あたし以外にはいい顔するんだ。
 そういえば、ヴァチカンで迷子になったときも、友達には愛想がよかった。
 あたしにばっかり怖い顔を見せる。
 オンとオフのギャップが激しすぎて、ついていけない。
 外ヅラだけはいいのが、本気で腹たつ。あのド変態め。

「神に召された姿のままで……と、よく先生は仰ってましタね」
 杏珠の言葉をどう受け取ったのか、急に女医は説教くさいことを言いだした。
 おそらくは、聖書の一節だろう。
 あの背徳者がそんなことを言っていたのかと思えば、いっそう腹立たしさが増すばかりだ。
「ワタシたち一人一人は神によって召し出された者であるのだから、それぞれが主からの分け与えられた分に応じて教会に仕えなさい……ということでスね」
 ですねって、ますます意味が判らない。
 杏珠は、眉間の皺を深くした。
「自分は自分らしく、これからもそのままでお生きなさいってことネ」
 女医はさらに噛み砕いて、説明してくれた。
 そんな“相田みつを”の名言集みたいなこと言ってたのか。……変態のくせに。










 問題は山積だった。
 弟のこともある。できれば家を出て一人暮らしをしたかったが、今はそれどころではない。
 あの病院で親切な女医に出逢えたのは、本当に運がよかった。
 でも、ヴァチカンのどこへ行けばイリアに逢えるのかまでは判らないらしい。
 ファンと称する女の子が押しかけてしまうからだろうか。日本で彼が所属する教会のことさえ教えてもらえなかった。
 愛人です! と言ってやりたかったが、そんなことぐらいであのイリアをへこますなんて無理だろう。
 もっとも、そんなこと誰も信じてくれるはずもなかった。
 プロテスタントの牧師ならともかく、カトリックの神父に妻帯は許されていない。あんな美しい人だから、こちらがストーカーと思われるだけだ。
 嘘でも、恋人と言えない自分が情けない。どう考えても彼の行為は、恋人に対するものではなかった。
 それが判っていながら彼を追うあたり、第三者から見ればかなり“イタイ女”だ。今さらどうしようもない。



 何ができるのか必死で考えて、とりあえず紙に書き出した。
 まずは……そう、もう一度イタリアに行くことだ。
 そこで、あの人を探す。
 それにはまずイタリア語を覚えて、お金もためなきゃならない。
 勢いで会社を辞めてしまったことを少し後悔したが、またイドリースに売られてしまうか判ったものではない。
 だけど、イドリースを通してイリアに逢えるかもしれない……そう考えて、ペンを放りだした。
 二度とあの男には会いたくない。
 仕事を辞めることに両親は反対しなかったし、むしろそれを喜んでいた。
 弟との歪んだ関係で悩んでいるのを、仕事関係のことだと勘違いしていたからだろう。
 イタリアに行くなら一人暮らしは経済的に無理だ。当分は、弟たちと顔を合わせないようにしなければいけない。部屋には、鍵がないからドアの前までチェストを動かしてバリケードにして寝るはめになった。

 自己都合の退職では、失業保険が下りるまでに三か月かかる。
 それまでに仕事が決まればいいが、この不景気には再就職はなかなか難しい。てっとり早く稼ぎたいので、とりあえずは人材派遣会社に登録をした。
 短期で仕事の内容に文句さえ言わなければ、そこそこ仕事はある。
 会社が終わった後に、居酒屋でバイトをして、イタリア語の学校に行く。
 母は心配していたけど、父にはどうしてもやりたいことがあるのだと言ったら、こっそり現金をくれた。
 最初の一ヶ月は特につらい。ふらふらしながら会社とバイト先と自宅を往復する。イタリア語は想像以上に難しい。
 毎週木曜日の教室の前までに覚えることは大量にある。それでも授業についていけないのだ。
 自分のやっていることが、ひどくばかばかしいことのようにも思える。
 それでも、彼にもう一度逢いたい。
 あんな変態でも、逢いたい気持ちはどうしようもないのだ。
 それだけが、今の杏珠を突き動かしている。
 身体中に散らされたくちづけの痕が、日ごとに薄くなっていくのを見るたびに寂しさが増した。



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