長い長い夢。
 幻を見ていたのならそのほうがよかった。
 彼のキャソックが残っている。ここに彼がいたという証拠が。
 ぎしぎしと骨が音をたてそうな身体中の痛み。
 首を絞められた時の、あの呼吸が止まる恐怖。
 人とも思えぬほどの美貌が、包帯の下では焼け爛れ筋肉組織や骨までもが露出していた。
 あの薄気味悪い蔦のようなもの……。まるでホラー映画だ。それも悪趣味なスプラッター。
 特殊メイクか、ツクリモノではないか。
 そんな考えが一瞬よぎった。
 でも、造形の先生に聞いたことがある。特殊メイクはワックスやシリコンを素材に使うそうだ。
 彼の傷に触れたときの柔らかさや、張りつめた表皮の感じ……臭い。
 ニセモノとも思えない。
 大量に溢れる膿。手足や首に巻きついた不気味なものは……今は、もうない。
 蔓……それとも、クラゲの触手のようなものか。
 ものすごい力で拘束されたように感じたが、腕にも足首にも痕跡はなかった。

 イリアは、本当に何者なのだろう。
 初めて逢ったとき、悪魔祓いの神父かと思った。まさかあれは悪魔憑きという状態だったのか。淫魔とかそんなものが憑いて……。
 いや、そうではない。彼は完全に自分自身を持っていた。あの行為はおそらく彼の嗜好だと思う。
 そうなると……やっぱり変態だ。



 あんな男を、変質的な趣味をもつような人間を……自分は、本当に愛しているのだろうか。
 ――愛してる。誰よりも愛してるから、あたしは、あの行為を受け入れられた。

 彼のほうは、愛していないのかもしれない。だから突然消えてしまうんじゃないの?
 ――でも、愛してるって言ってくれた。二度も助けてくれた。

 あんな唐突に車の中に現れるものなの? もしかしたらイドリースと裏で手を組んで、馬鹿な女を弄んでいただけなのかもしれない。
 ――そんなはずない。あたし一人のためにそこまでするなんて……不自然すぎる。

 どんなに自問自答を繰り返しても、答えは見えない。
 あり得ない現実が、今の杏珠を混乱させている。
 吊り橋効果?
 心理学的には、そういうのかもしれない。
 人は生理的に興奮することによって、自分が恋愛していると認識するのだと聞いたことがある。
 それなら、いつか忘れてしまうだろう。
 彼のことも、あの異様な行為も……。
 現実離れした奇妙な言動。
 変質的な行為で、美貌も何もすべてが台無しだ。
 もう忘れよう。あんな男のことなど……。危ない世界の人だ。
 自分とは無縁の人でしかない。
 そう思いながら、今、この瞬間さえ彼のことしか考えられない。



 イリアに触れられた身体を自らの手でなぞった。
 置いて行かれた後はいつも……。一人きりの夜には。
 彼がしたことを、そっくりそのまま忠実に再現した。咽喉もとを指先でたどり、ゆっくりと胸まで撫で下ろす。
 目を開けると触れてくれるあの人がいないことを、嫌でも感じてしまう。
 だから、目を瞑る。
 自分の手が彼のものだと思う。
 あの時の彼の言葉を、指先の感触を、思い出しながら胸の先端をしごく。
 指の間に挟み込んで、揺らしてみる。
 痛い。ちょっと涙が出そう。
 イリアは、乱暴にするし、その犬歯はまるで牙みたいに尖っているから、ちょっと当たっただけでもすごく痛かった。
 彼が去った後でも残した噛み傷やくちづけの痕は、この身体中に残っている。
 喉もとから、胸のあたりまでは自分でもよく見えた。
 壁にはめ込まれた大きな鏡で確認したら、うなじや背中のあたりまで、赤い痕跡が散っている。
 さらに、数が多くなるのは臍から下。柔らかい部分に残りやすいらしい。
 大腿の内側、それから普通なら自分では絶対に見ることのない部分。
 そこは、さんざんイリアに苛められて、自分で軽く触れただけでも、じんと沁みる。
 こんなときはトイレに行くときさえつらいのに、その痛みがたまらなく嬉しい。
 快感だけではなく痛みさえ彼がくれたものだと思えるから。
 どうしよう。
 イリアのこと変態だと思ってたけど、あたしだって変だ。
 奥のほうは怖くて触れない。それ以外の場所をそっと撫でたり擦ったり、抓んでみる。
 彼に触れられていたという実感をもう一度、取り戻したかった。
 自分で自分の身体を抱きしめる。



 でも、しばらく続けていると自分のやっていることが、とてつもなく虚しくなってくる。
 彼の手は、もっと冷たくて大きくて……。こうじゃなかった。こんなんじゃない。
 それでも止めることができない。
 彼の名を呼ぶ。
 恋しくて、やるせなくて。寂しくて。
 どうして、現実はこんなにも辛いことばかりなのだろう。
 そこから逃げ出したくて、何も考えたくなくて、イリアがくれたあの感覚を思い出す。
 何度もそんな一人きりの夜を過ごして、途方もないほど彼のことばかり想っていたのに……ようやく逢えたのに。
 イリアがくれたのは、つかの間の悦楽と、それに見合うだけの苦痛。
 想いは膨らむばかりで、行き止まりがない。片時も離れていたくないのに、彼は違うのだろうか。愛情を感じてくれていないのか。
 何度も叫び続けていたから、咽喉は嗄れて痛む。
 立ち上がれないほど、身体が……心が重い。






 感傷にひたって、いつまでも寝ている場合ではない。
 今は何時なのか。すでに一晩ぐらいたってしまったのか。時間の感覚がまったくなかった。
 もし、このホテルで一泊してしまったのなら、両親が心配しているかもしれない。
 迦陵が何か言ってくるかもしれないが、あいつのことは今、考えるのは止めよう。
 会社については、もうどうでもいい。あんな人身売買まがいのことをする社長の下では働けない。
 家に連絡をしなきゃ。でも、鞄なんて持ってこなかった。
 いきなり受付から拉致されたようなものだ。財布も携帯も何もない。
 あの後、展覧会はどうなったんだろう。理莉はひとりでなんとかやってくれたのかな。
 鞠尾さんがついているから、心配はないかもしれないけど……。

 とりあえず風呂を使いたかった。
 杏珠は強く目をつぶって、深く息を吸い込んだ。寝台の支柱につかまりながら、ようやく立ち上がる。
 ゆっくりと歩きだすと、思っていたよりも痛みは、ひどくはない。
 寝室を出ると居間がある。ひんやりとした感触に驚いて床を見ると、絨毯を敷き詰めた寝室とは違って、床には大理石が使われている。
 寝室と同じアンティーク家具が配置され、巨大なシャンデリアが天井からぶら下がっていた。
 大きな窓からはレースのカーテン越しに明るい陽射しが差し込んでいる。
 中央のテーブルの上に薬があった。杏珠の名前と処方したらしい薬局名を書いた袋に入っている。市販薬ではない。
 ソファには大きな紙袋。海外の有名ブランドのロゴがある。
 身体が沈み込んでしまいそうなほどの豪華なソファにもたれかかり、薬の袋を開けてみた。鎮痛剤と、外用薬らしいプラスチック容器に入った軟膏。薬の説明書。
 イリアが残したのは、キャソック以外にはこれだけらしい。ちょっと迷ったが、思い切って紙袋の中身をテーブルの上に広げた。
 薄い桜色のシックなワンピース。
 それに同色の下着。……サイズは、あつらえたようにぴったりだった。
 いつの間にこんなものを用意したんだろう。
 いや、それ以前にどうしてあたしのサイズを知っているんだ。
 突っ込みどころは山ほどあったが、とりあえずこれで家に帰れる。
 最悪の場合、イリアのキャソックを着ようかと思っていた。タクシーに乗る前に警察を呼ばれたら、間違いなく痴女だ。
 薬のほうは、どうしようというのだろうか。
 まさか、あそこに塗れってことなの?
 真剣に考えかけて、ふと掌のかすかな痛みを思い出す。
 イドリースに襲われたときに、ガラスを握った傷だ。
 でも、傷痕はほとんど残っていない。むしろイリアにされたことのほうが痛かった。
 説明書には、薬剤の名称と効能、副作用などの注意事項のほかに、医療機関の名称がある。
 何気なく見ていて気がついた。この病院はアザゼルを連れて行ったところだ。
 やはり、イリアは医師だったのかもしれない。
 あのとき、アザゼルもイリアも幻のように消えてしまっていた。でも、本当に人が消えたりするものだろうか。
 もっと探してみれば、彼らの痕跡があったかもしれない。
 今からでも遅くないはず……。
 病院から薬を処方するには、必ず医師の名前のある処方箋が必要だ。
 それがあれば、イリアのことが判る。

 居間以外にも書斎のような部屋やバーカウンター、ダイニングルームもあった。
 あれこれドアを開けると、ようやく風呂が見つかった。
 いつかイリアと入った巨大なスパみたいな場所ではなく、普通のホテルのバスルームだ。
 普通といってもバスタブとシャワーブースは別になった贅沢な造りで、ゆったりと入ることができた。
 ぬるめの湯に首まで浸かると、疲れも痛みも溶け出てしまいそうな気がする。
 化粧品持ってきてなかったな……と思いつつも、しっかり顔も洗って、シャンプーまでしてしまう。ノーメイクで帰ってしまえ。
 バスアメニティは、乾燥へちまにバスソルト。スキンケア用の化粧品ぐらいならある。
 問題は交通費か……。財布もないわけだし、タクシーなら家に帰ってから支払えばいい。大丈夫だ。
 われながら、余裕がある。
 以前の自分なら、こんなに落ち着いていられなかった。
 今は違う。
 イリアを探す。
 ひとつの目標ができた。
 今までは、何をしたらいいのか。どうすればいいのか。
 自分が欲しいものも求めているものも、まったく見えていなかった。
 だから、いつも紐の切れた風船みたいにふらふらしていたんだ。
 まるで背骨のないクラゲみたいに海を漂うだけだった

 自分が何を望んでいるのか。求めているのか。
 そんなことさえ知らずにいた。
 だから、あたしは弱かったんだ。
 死ぬのは怖いけど、いつ死んでも構わないような……そんなあやふやな気持ちで、毎日を過ごしてきた。まるで鬱状態のニートだ。
 皆に判ってもらえそうな、共感してもらえそうなことばっかりやって、誰にも責められたり苛められないように、そればかり気にしてきた。
 妹と恋人のことを知った時もそうだ。周囲にどう思われるか。
 男ひとりを争うより、身を引くほうがかっこよく思えて……そんなカワイソウな自分に同情してもらえるのが、なんとなく嬉しかった。
 自分のことしか考えてないくせに、いつも被害者ぶっていた。

 でも、今なら判る。
 置いて行かれた辛さに泣くばかりでは、その場で立ち止まったままだ。
 嫌がられるかもしれない。迷惑に思われるかもしれない……そんなこと考えていたら、何もできない。
 あたしは、イリアを追いかけてやる。
 これって、ストーカーじゃないわよね。ストーカーっていうなら、向こうのほうだし。
 いきなり現れたかと思えば、あたしの身体を玩具にして消えてしまう。
 このままじゃ、納得できない。
 あんなに顔面スプラッターなのに、形成手術も受けない精神がねじまがった自虐趣味だとしても、せこい言葉責めやら大人の玩具で女をいたぶるような救いようのない変態神父だったとしても。
 もうどうしようもなかった。
 意地もプライドもあったものじゃない。それは彼が彼であったから……、あたしがあたしである以上、もはやどうしようもないのだ。

 もし、今のあたし自身を誰かに、頭が変になっていると言われても否定できない。



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