気を失ったのか。
 それとも疲労困憊のあまり眠ってしまったのか。
 目が覚めると、杏珠はひとりきりでベッドの上に寝かされていた。

 足の付け根がひりひりする。
 股関節が怠く、力が入らない。
 手を伸ばしてみても、ベッドは冷たかった。横で眠った形跡もない。
 イリアは、行ってしまったのだ。
 また、今度も自分だけを残して。
 寂しさに杏珠は、リネンを握りしめて泣きむせんだ。
 泣けばイリアが戻ってきてくれるのではないか。
 いつかのように、溢れた涙を唇で拭ってくれたら……そんな虚しい期待と願望に胸がつぶれそうになる。
 今になって、手放されるくらいなら、いっそ初めから放っておいてほしかった。
 優しくされることも、子供のように大切にされることも、知らないでいたら平気だったのに。
 甘い言葉などいらなかった。
 最初からなければ、それが当たり前だから。
 誰もそんなふうには、接してくれなかった。
 こちらから、差し出すばかりの恋しか知らなかったのに。
 愛される歓び。与えられる嬉しさに、身体と心いっぱいに満たされ、舞い上がっていた。
 これ以上はないというほど幸せだったものを、こんな形で無残に奪われてしまうぐらいなら、最初からないほうがいい。



 声を限りに泣き叫んだ。
 泣いて泣いて、泣き疲れて杏珠は、ぼんやりと天蓋を眺めていた。
 巨大な……キングサイズのベッド。
 紗を張った天蓋。見事な彫刻を施した寝台の支柱。
 周囲を見回して、ここはどこなんだろう……。ようやくそんなことを考える気分になっていた。
 身体の節々が痛むのをこらえて、ゆっくりと起き上がると、今の時間が気になってきた。
 ここがホテルなら、チェックアウトの時間もある。
 ようやく現実的な思考が戻ってきて、急いで自分の着る物や時計を探す。
 巨大な寝台から降りると、長い毛足の絨毯が素足に触れる。
 よほど腹に力をいれていないと、その場に倒れ込んでしまいそうなほど疲労していた。
 薄暗い室内を見回し、美術品を思わせる豪奢な調度品と家具の中で、自分の持ち物たちは、ひどく違和感がある。
 血で汚れたスーツと、裂けたスカートとストッキングが、椅子の上に簡単に畳まれて置かれていた。
 ブラウスもジャケットも、ボタンがほとんど残っていない。
 リムジンの中での恐怖は、どこか遠いところにあって心は虚ろなままだった。
 今、ここにイリアがいない。
 それ以外は、もうどうでもいいような気がしている。
 ベッドの上に、イリアのキャソックも残されていた。
 黒い僧服に手を通して、杏珠はイリアの残り香を嗅ぐ。
 奥深い香りは、心の深いところに届いて触れてくるようだ。
 どこか懐かしい。不思議な香り。
 残されていたのは、ナルドの香りだけだった。
 性の名残などどこにもない。
 あれほど滅茶苦茶な抱き方をしながらイリアは、杏珠の中に快楽の証を残したことが一度もないのだ。
 それならばイリアは、杏珠によって充足をしたわけではなかったのか。女として自分は何かが欠けているのか。
 そう考えて杏珠は、夢中で首を振った。
 初めての経験というわけでもない。かつては別の男との関係を結んだこともある。
 こういうことに上手下手があるのかどうかは判らないが、もし自分に不満があるのなら、二度と抱くはずがない。
 彼なら、女にも男にも不自由しないだろう。
 なぜイリアが、自分に執着していたのかが判らない。……いや、執着など最初からしていなかったのか。
 たまたま手を伸ばしたとき、そばにいたのが杏珠だったから?
 まさか。イタリアと日本では距離が離れすぎている。
 離れているのは、空間だけではなかった。
 心の距離さえ、遠い。
 杏珠は、彼に抱かれているだけでよかった。肌のぬくもりや筋肉の固さを、自分の上に感じていられるだけでいい。
 だが、彼の行為は特異だった。
 執拗に責められて、強引に陶酔の中に引きこまれる。抵抗などできない。





「変態!!!」
 わざと露悪的に口に出して言ってみた。
 手近にあった枕をつかみあげ、壁に向かって投げつけた。
 ベッドの脇に置いてあった水差しを取り上げ、力任せにぶつける。
 ガラスの水差しは、壁まで届かずに絨毯の上に落ちて、転がりながら中の水をぶちまけた。
 手を伸ばして空のグラスを投げる。
 今度はコンソールに当たり、軽い音を立てて粉々に砕け散った。
「おまけに……不能でサディスト。あんな人、好きになるなんてどうかしてる」
 サディストで、変態……。ついでに不能か。
 自分の言葉に、笑いがこみ上げてきた。
 笑いながら、髪を掻き毟る。
「あ、ああぁぁぁあ、ああっ、もうっ!!!」
 自分に対して腹が立つのか、あるいは、こんなふうに置き去りにしたイリアへの恨みなのか。
 笑ったり泣いたり、怒ったりする自分の感情のベクトルがどこへ向かっているのか、もはや判らなくなっていた。
 立っていることができずに、その場にずるずるとしゃがみこんだ。
 イリアがいない。
 まるで自分を支えるものを奪われたような気がした。自分の中に芯がないのだ。
 杏珠は、自分が砂像のように崩れていくのを感じていた。





 どこかで、奇妙に冷静な自分が、自分を見下ろしている。
 イリアは、どこにもいない。
 これは、どうしようもない現実だ。
 キャソック一枚、残して行ってしまった。
 変質的な行為は、今に始まったことではない。
 いつも彼の行為は、異常でマニアックだ。普通の精神の持ち主がついていけるわけがなかった。だから……イリアは去ったのか?
 それなら、もうどうしようもない。合わなかっただけだ。

 そもそも、イリアのどこを好きになったのだろう。
 外見があんなに奇麗だから?
 それとも、あの低い声?
 囁かれただけで、腰が抜けてしまいそうになる。蠱惑的な声だった。
 出逢ったシチュエーションが外国で、彼が神父だったせいもある。あの神秘的な雰囲気に気持ちが揺らいだだけだ。
 非日常での出会いは長くは続かない。スキー場や海では、ステキに見えた相手が街中では、まったく別人に見えてしまう現象は有名だ。



 ヴァチカンで逢った時のこと。
 その夜に抱かれたこと。
 スペイン広場で、危ないところを救われたこととか。
 手配してくれた豪華すぎる飛行機や、本物の舞踏会。少女のころの夢そのままの時間と、それとは正反対の変質的な行為。
 強引で乱暴なくらいめちゃくちゃなことばっかりするくせに、ときどきびっくりするほど優しい。
 日本では、まるで医者のような恰好をしていた。
 あれは脳震盪を起こしたときの幻なのか。いや、絶対に違う。
 確かに、彼はそこにいた。
 病院で自分がされたことを思い出した瞬間、恥ずかしさと、腹立たしさがないまぜになって、全身を掻きむしって叫びだしたくなる。
 あの人……やっぱり変態だ。最低のサディストだ。



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