どれほどこの子の愛を求めただろう。
 甘い涙、あたたかな吐息。すすり泣きしながら、この子は酩酊していた。
 自己犠牲に偏るのは、昔と変わらない。それを叱ってもこの子は気づくことがなかった。
 愛しい、憎いわが子。
 お前は現身に数えるほどしか、俺に会っていなかっただろう。それでも俺はお前の存在をいつも身近に感じていた。
 人恋しさにお前が泣くとき。
 お前が幸せと、歓びに心を震わせるとき。

 あるいは、お前の心に誰かが触れたときでさえも、俺はお前のそばによりそっていた。
 今、この子が見ているものは俺であって俺でないものだ。
 それは自らの作りだした幻の恋人……あるいは、本来のお前自身。
 俺ではない。
 胸くそ悪い感情は、嫉妬というものなのだろうか。
 いや、それよりもいっそう辛く狂おしい。
 この胸がずたずたになりそうな苦しさはなんとしたものだろう。

 人類を創造したとき、その姿は双子の兄に似せたのだ。眼も鼻も口も、歯や内臓。骨、血、生殖器に至るまで。
 もっとも純粋の生命に近い炎とその対極が土。
 まったく異質のものでありながら、存在するべき場所が異なろうとも、我らは似たような身体と心を持つ。
 想う心もあれば、痛覚も同じ。ただ我らには時間の概念がない。だから器である肉体が滅することもなかった。
 敗残者として内臓を抉られ顔を焼かれ右腕を失いながらも、今のような想いは無かった。
 発散も蒸発もせず、胸の底に沈殿している狂おしさ、やるせなさは。





 腕の中で杏珠は、イリアを見ていた。
 泣きはらした兎のように赤い眼をして、こちらをじっと見据えている。
 傷つけられ血を流し穢されながらも杏珠の眼は澄んでまっすぐだった。
 崩れそうなほど脆いくせに、この子の眼差しは真剣で一途で眩しい。
 燃え上がるような若さと、みずみずしさは、我らには持ちえないものだ。
 長い時を過ごし生きてきた残滓は、この身に染み込み、われらはお互いにそれを厭わしく思っている。
 だからこそ、その浄い魂を己と同じところへ引きずり下ろして、貶めようとするのだ。

 兄は、この眼を懼れた。かつて自らが創りあげた土塊であったものを。
 懼れるがゆえに、イドリースはこの子を捨てたのだろう。
 人として出来上がる前の不完全な存在。この世でもっとも不要なもの。
 それが代え難い、神にも等しいものとなる。



 耐え難い恥辱と苦しみが。
 この眼で見つめられているだけで我らの秘めたる醜悪なものが白日の下に晒される。
 それを俺は覚悟をしていたのではないか。
 この稚い子を抱くたびに、これが最後か。
 これでお終いかと思いながら、刹那の歓びを盗んでいた。
 絶望しながら、この子を見てきた。
 この残酷で、愛しい小さな俺の神を……。





 身体を離すと、まだひくひくと蠢く蜜壷から、杏珠の愛液に血が混じって溢れた。
 いかに女の膣が柔軟であろうと、潤滑をよくするために濡れたとしても、これほど乱暴に扱えば傷がつく。敏感な部分であるから痛みはいっそう強いはずだ。

「や……だ。イリア……」
 息も絶え絶えに杏珠は、うわ言のように言う。
 大きな眼から涙が溢れだす。無理に押さえつけられた両足はがくがくと痙攣している。
 浅い呼吸を繰り返しながら、身体を起こす気力もなさそうだった。
 黒い髪に、肌にイリアが擦りつけた赤黒い膿が絡まって喉や顔にまつわる。細い首は、締め上げられた指の痕が残っていた。
 それでも、両手を伸ばしてこんな惨い仕打ちをした男を探す。

「離さないで……。お願い……もっと……イリア」
 切れ切れの言葉が、苦し紛れの嘘だとすぐに判る。
 情欲に潤んだ女の顔ではない。
 必死に僧服の裾をつかんで、裸の身体を擦りつけてくる。
 稚拙なしぐさに哀れをもよおす。
 こんな乱暴な媾合を、この子が望むはずもない。それを無理にねだるのは怯えているからだ。
 ことが終われば、捨てられる。
 その恐怖が、今の杏珠を動かしていた。

 己が身体を裂かれる苦痛に脂汗を額に滲ませて、男の身体を暖めることができたと悦ぶ。
 右目を隠していたときでさえ俺を見て震えていた子が、膿爛れたこの顔に触れ痛くはないのかと聞く。
 若い娘が腐り果てたこの姿に、怯えぬはずがない。
 さぞ恐ろしかろうに。今も肌を粟立てているくせに。

 ――愛されないと、人は凍えて粉々に砕けてしまうのよ。

 いつか、この子がそう言った。
 今と同じように俺の身体を暖めようとしたのではないか。
 もはや覚えていないだろう。遠い昔のことだ。
 愛されないと凍えて砕け散ってしまうのは、人だけではない。人ならぬこの身も同じかもしれぬ。
 この子の愛がなければ俺は、もはや存在すらしないものだ。
 世界は、すでに俺の手を離れた。
 人は、もはや創造主など必要としない。



「もっと……か。これほど血を流しながら、まだ欲しいのか」
 イリアの言葉に杏珠は、頬を強張らせる。
 わずかに残った自尊心がこの子を追い詰めているのだろう。
 杏珠は、こくこくとうなずく。
 シーツにしがみつき、汚れされた顔を押しつけて泣いていた。
 哀れに思う反面、奇妙に加虐心を刺激される。
 捨てられた小さな卵でしかなかったこの子は、どこか陰性の面差しがあった。
 容姿は悪くはない。
 当世ふうの感覚で言うならば、美しいと呼ばれる女の部類に入るのだろう。
 それが日陰に咲く花のような華奢な体つき、白い肌、今にも泣きだしそうな潤んだ大きな眼のせいで怯弱そうな印象を見る者に与える。
 その頼りなげな表情が自信のなさが、杏珠の美貌をひどく凡庸なものにしてしまう。
 かつてイドリースに捨てられたことが、この子に鬱屈した影を落とすのだろう。
 あれほど愛しみ育てたイリアよりも、杏珠にはイドリースのことが忘れられぬらしい。
 そう感じるたびにイリアは、すべてを打ち壊したくなる。
 もっとこの子を苛めてやりたい。
 傷つけて……いっそ、己のことを憎んでくれればいいとさえ思う。
 この子があまりに可愛く、恋しいから。





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