イリアの顔をまともに見られない。
 眼を開けることさえできない。
 伸ばしかけた手が彼に触れる瞬間、あわてて引っ込めた。まるで火を恐れる獣のように。
 触れることさえ、恐ろしい。
 あまりに浅ましい自分が、彼を穢してしまうようで……。

 確かに彼は、炎に似ている。
 黄金の髪も赤い眸も、低い声も。
 燃える焔は、骨をも融かしてしまうだろう。
 近寄ってはいけない
 そんなことは最初から判りきっていたことだ。
 初めて出逢った瞬間から、理性より先に本能がそう叫んでいた。

 だが、今さらどうすればいいのだろう。
 もう取り返しはつかない。
 灯りを追って虫は、炎の中に飛び込んでいく。
 翅を焼かれて、苦しむ間もなく虫は死んでいくのだろうか。
 光源を求めて螺旋を描きながら飛ぶ虫は、本来は月を目指しているのだという。
 決して届くことのない月へと飛ぶ虫は、自分に似ている。
 それが判っていながら、なおも彼を思い切れない。
 あきらめることができない。
 どんなに押し殺そうとしても、この野卑で淫らな情欲を彼の前で隠しきれるはずがなかった。
 彼の優しさも、冷たい指先や唇も、独占していたい。その隻眼に自分だけを映して欲しい。
 望めば望むだけ、なおさらこの身を飢えさせる。



 なぜ。
 好き……愛している?
 そんな言葉では言い尽くせない。
 何かもっと強い力で惹きつけられてしまう。
 今、彼がここにいる。
 その嬉しさに息が詰まりそうで、眼を開けたなら、一瞬にして消えてしまいそうな不安に身動きもできない。
 逢って、まだそれほど時間もたっていないのに。
 この人が何者なのか。
 本当にヴァチカンの神父なのか。
 イリアという名前しか知らない。
 いや。その名前さえ本名かどうか、判らないのだ。
 それなのに、どうしてこれほどまでに惹かれてしまうのだろう。





 広々とした寝台の上に寝かされる。血まみれの引き裂かれたスーツだけではなく、下着さえも脱がされてしまった。
 恥ずかしさに身を縮めるよりほかにできない。
 天蓋から下がるとばりが、真昼の光を和らげてくれる。
 それでも一糸纏わぬ裸の自分が、生まれたばかりの子供のように頼りなくも情けなかった。
 手のひらの傷は、不思議と痛みがない。
 熱を孕んでずくずくと血の流れを感じるほどだったのに、イリアの手に触れられただけで、痛みや熱さがまるで夢のように引いてしまうのだ。
 だが、痛みを感じなくなった分だけ、いっそう恥ずかしさが増す。
 イリアのように美しくもなければ、女としての魅力も足りない。
 そんな貧相な身体を彼の前に晒すことがひどく辛い。
 これまでに付き合ったことのある相手なら、ごく自然に身体を重ねた。
 それは当たり前のことで、なんの疑問もなかったのに……。
 彼は、違っていた。
 その行為は、いつも一方的なものだ。
 ともに、その歓びの果実を味わうことなど一度として、ない。
 このままこの身が二つに裂けて死んでしまうのではないかと思うような恐ろしさと、それがなければ生きてはいけないと思うほどの獰猛な歓びの中へただ一人、突き落とされる。
 悦楽の渦へ落とされるさなかに、イリアを想う。



「どうした」
 不意にイリアが吐息を吹き込むように囁きかける。
 その声音の低さに杏珠は、身を震わせた。
「どうした。杏珠」
 繰り返し問われて、男の背をかき抱いた。
 どんなに腕を伸ばしても、回りきらないほどその背は大きく広い。
「……そばにいて」
 そう言った声が、自分でも驚くほどかすれている。
「ここにいる」
 心の底に沁みるほど低いイリアの声。
 冷静すぎるほど落ち着いていて、呼吸ひとつ乱れることはない。
 それが、杏珠にはやるせなく苦しかった。
「どこにも行かないで、ずっとあたしのそばにいて」
 不安が膨れ上がり、もの狂おしく杏珠は叫んでいた。
 夢中でしがみつくことしかできない。
 薄い布地を通して、彼の心臓の鼓動を聞いた。
 冷たい指先が頬に触れ、目尻にたまった涙を拭う。
「埒もない」
「だって……」
 なおも言いつのろうとするのを、強引に唇でふさがれる。
 とっさに食いしばる唇を割って、ざらりとした舌が入り込む。歯列をなぞられると、こわばる身体が、内側から焦がされ干し上げられる。
 言いようもないやるせなさに、胸が詰まって息ができない。
 なだめるようにして、優しく髪を撫でられた。
 その手の感触が泣きたいほど嬉しい。

「ん……ふっ」
 杏珠は、あえかな声をあげていた。
 くちづけをしながらイリアは、杏珠の敏感な部分を指先で刺激する。
 流されそうになるのを必死でこらえ、男の胸を押し返すがびくともしない。
「やぁ、やだって……!」
 乾いたはずの涙がまた、こみあげてくる。
 泣きそうになるのを見られまいとして、手で顔を隠そうともがく。
 体重をかけないように気をつけてくれているらしいが、のしかかられていては動けない。
「イリアは、……ごまかそうとしてる」
「何のことだ」
「そうやって、ごまかしてる」
「何もごまかしてなど、おらん」
「嘘よ。だって、だって……」
 咽喉が押しつぶされるような、目の奥が熱くなるような、泣きたい気持ちがいっそう込み上げてくる。
 また、泣いてしまえば、きっと彼は、エレベーターの中でしたのと同じことを繰り返すのだろう。
 あるいは、ローマでしたように。
 一方的に快楽を与えるだけ与えて、放り出されてしまう。
 赤い隻眼に、感情の片鱗さえ伺うことはできない。





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