わが子のすすり泣く声は、細く長く響く。その華奢な身体が大きく反り返り、腕の中で崩れ落ちた。
 エレベーターは部屋と直結している。エントランスと居間を抜け、奥の寝室に杏珠を寝かせる。
 服についた血は、ほとんどが返り血らしい。
 自らつけたガラスの傷は、右の掌がえぐれている。よほど強くガラスの破片をつかんでいたようだ。
 すでにガラスは抜き取り簡単な処置は終わっている。出血もそれほどひどいものではない。
 イリアは、部屋つきのバトラーを呼ぶと、必要なものを言づける。

 現実的な処置と同時にイリアは、杏珠の手に自らの手をかざす。
 手当てとは原初的な医療ではあるが、キリストの奇跡譚にはつきものだ。
 違うのは、イリアの右の袖口から現れる金の繊毛である。
 絹糸にも似た奇妙な触手は、ゆっくりと杏珠の掌を包み込み、絡みつく。
 繊毛は、傷の奥深くに入り込みガラス片を抜き取る。
 神経や筋肉への損傷はない。裂けた皮膚細胞、血管の修復を図ると、やがて毛細血管が発達し、新しい表皮が作られていく。
 本来ならば数日かかる皮膚の再生が、瞬きするほどの間にできあがる。それでも、完全ではない。
 人にはそれぞれ自己治癒能力があるからだ。他者が介入できることは限られている。

 杏珠は、ほうっと小さく息を洩らした。
 汗で額に張り付いた前髪を梳いてやり、イリアはそこへくちづけする。
 小さな額だった。
 額だけではない。何もかもが小さい。

 血に汚れたスーツ。引き裂かれたブラウスを脱がす。杏珠は身体を丸くして、ささやかな抵抗する。
 あやすようにくちづけをしてやると、力を抜きおとなしく脱がされるままになった。
 スカート、下着……すべて脱がしてみれば、その身体のか細さが、はっきりと判る。
 不完全な肉体。
 わずかに力を入れれば、簡単に折れてしまうだろう四肢。薄い皮膜に覆われたやわらかな肉の塊。
 生まれたばかりの雛鳥のようでいて、その内側にある精神は、驚くほど強靭だった。




 この子を抱きしめるこの瞬間、俺は俺の心臓を抱きしめているのだ。
 熱く脈打つ己の心臓の鼓動。
 触れ合う肌と肌の温かさ。
 譬えようもなく安らかで、心地よく、かぐわしい感触。
 それらを、教えてくれたのは、この子だった。
 愛しい我が子。
 この子を手放したくはない。だから、名を与えた。
 名づけられることは、支配され、封じ込められることだ。
 本来ならば、名など必要なかった。
 呼ばねばならぬほど、離れたことなどもなく。お互いより他の者など、我らの世界には存在しなかった。
 この手の中だけが、この子にとっての世界であり、すべてだったはずだ。
 だが、名を与えたことにより、わが子は、この手から離れてしまった。
 俺にとって、お前は唯一無二の存在であるのに……お前にはそうではない。





「……かないで……」
 舌足らずな甘えた声で、杏珠は訴える。
 寝言かと思えば、意識はしっかりとしているようだ。
 大きな眼が涙に潤んで、眼差しは揺れていた。
「もう、どこにも……行かないで」
「ここにいる」
 そう言って髪を撫でてやると、まるで仔犬のように鼻をくうんと鳴らして杏珠は、懐に顔を押しつけてきた。
「傷は……」
 痛まないのか、と聞こうとしたがそれより前に杏珠が答えた。
「……平気……だから、お願い……」
 傷の治りきらぬ手を差し伸べながら杏珠は、イリアの顔をその両手で挟んだ。
 くちづけせんばかりに近づきながら、いざとなると怖がるように距離を置く。
 叱られるのを待つ子供に似ている。
 泣くのを必死で堪えるように唇を噛んで下を向くが、じきに眼の縁からは涙が溢れて零れた。
 そのしぐさは幼いころと、少しも変ってはいない。
 誰がこの眸を見て、否と言えるだろうか。
 狂おしいほどの想いが己の内側からあふれ出すのをイリアは感じていた。



 それでも、この子の願いを叶えることはできそうもない。

 杏珠は媚薬を呑まされたと信じ込んでいるようだが、そもそも媚薬、惚れ薬の類に精神を操作することはできない。
 いわゆる偽薬プラセボ効果によるものだが、杏珠の場合は、それだけではなかった。
 イドリースがイリアと同じ顔をしていたせいだ。
 杏珠を追い詰めたのは、他でもない。イリア自身である。
 蜘蛛が獲物を自らの巣に誘い込むように、イリアも杏珠に少しずつ官能の毒を注ぎ込んでいた。
 身体に快感を与えてやれば、やがてそれを恋と勘違いするようになる。








 この世において最初に土と塵から“ヒト”を創ったのは、双子の兄だ。
 なぜ、兄が“ヒト”創ろうとしたのかは判らぬ。
 かつて、一体であった我らが、二つに別れた寂しさからか。
 あるいは、神にも近しい完全な存在であるという今の己に倦むのか。

 それは、卵の形をしていたが土と塵に魂は宿らず、いわゆる生み損ないであった。
 卵を創った残りの土と塵から、今度はイリア自身が“ヒト”を創りだした。
 姿は、兄を模範の型イデアとした。
 初めの失敗から兄は、出来上がったものに息を吹き入れたため、ヒトは命あるものとなる。

 だが、ヒトがひとりでいるのはよくないと兄が言った。
 なるほど我らも双子ならば、ヒトにも“合う助ける者”が必要であろう。
 野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形造ると、ヒトによってそれぞれに名前をつけさせた。
 名づけた者が、それらを支配できるからだ。
 だが、その中に自らの合う助ける者をヒトは見つけられなかったため、ヒトから抜き取ったあばら骨で女を造りあげた。
 ようやく男は我らから離れ、女と結ばれる。ふたりは一体となった。



 残ったのは、男でも女でもない。不具の子。
 命の宿らぬ卵を、拾い上げ育てた。
 卵は、永遠に卵のままであるはずであった。
 これが孵化することなどあり得ない。
 なぜなら、これこそが、最初の人類の形であったから……。

 この卵が割れる瞬間に、ひとつの世界が崩壊する。
 いや、それ以前に瓦解は始まっていた。おそらく天地を創造した瞬間から。
 創造の全ての過程は、破壊の始まりなのだ。

 ――壊れてゆく世界とは、おそらく俺自身なのだろう。





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