神に対する人間の最初の叛逆と、また、あの禁断の木の実。
 人間がこれを食べたために、この世に死と我々のあらゆる苦悩がもたらされ、
 エデンの園が失われた。
 おお、天にいますムサイ詩神よ。
 願わくはこれらのことについて、謳い賜らんことを……。

ミルトン 失楽園より










 真昼のオフィス街で、人目もかまわず杏珠はイリアの唇を貪った。
 通行人がわざわざ足を止めて二人の様子を伺っている。
 大勢の気配を感じながらも止めることができない。
 自ら舌を伸ばし、絡ませる。
 イリアは優しくあやすように、杏珠の唇を吸うが、とても物足りない。
 まるで溺れる人のように、イリアの広い背中にしがみつき、熱く滾るような身体を押し付ける。
 頭の芯が痺れるようで、とても立っていられない。
 今の杏珠は、衆人環視の中でさえ、激しく昂ぶる衝動を抑えきれずにいる。
 もどかしい。
 もっともっと、欲しい。
 とても足りない……。

「イリア……」
 唇が離れた瞬間、自分でも驚くほどにかすれた声が洩れた。
 身体の奥がじんじんと痺れている。
 まるで高熱に魘されるように震えが止まらず、涙がこぼれた。
 家まで送ろう……というイドリースの言葉を無視して、車を途中で降りたことを杏珠は、早くも後悔していた。
 車内で手の怪我を処置したことも、事態を悪化させる。もしかしたら、イドリースはこうなることを知っていたのではないだろうか。
 傷の痛みより仕込まれた媚薬の効果が、さらに上回る。
 今すぐ抱いて欲しい。めちゃくちゃにされたい。
 どうしよう。あたし……。
 身体の奥で渦巻く獰猛な欲望が、炎のように熱い。

 こんなはずではなかった。
 もう一度、イリアに逢えたなら、普通の恋人同士のように抱きしめ合って、それから自分がどんなに、彼を想っているのか。
 ちゃんと伝えよう。好きだってことを……。そう思っていた。
 逢えないことが、どれほど寂しかったか。
 聞いてほしかった。
 優しくキスしてほしかった。
 甘えさせてほしい。
 あまりに、いろんなことがありすぎて辛かったから。

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
 やっと逢えたイリアにあたしは、情欲ばかりが募っている。
 もっとロマンチックに逢いたかったのに。
 よりによって、男の咽喉笛を噛み切ろうとして、血まみれになっている姿なんて見られたくなかった。
 こんなのって……ない。
 杏珠はたまらず泣き出していた。だが、泣いても身体の疼きは止まず、いっそう煽り立てるばかりだ。
 手を握り締め、爪が掌に食い込むまで硬く握る。
 痛みで、何もかも忘れられたら……。
 その考えは、すばやくイリアに封じ込められた。
 両手首をつかみあげられて、肩を抱かれて歩くように促される。
 息が苦しい。
 必死でイリアにしがみつく。

 イリアは、自分の黒い僧服キャソックを着せ掛けてくれた。背の高い彼の服は裾を引きずるほどだが、それでも血まみれのスーツ。ボタンのないブラウス。裂けたスカートという何があったかを連想させる姿よりは、よほどましだっただろう。
 歩いた距離は短い。ほんの数歩にしか過ぎないのに、恐ろしく長い距離に感じる。
 肩を抱かれて、足早にどこかの建物に入って行く。
 それがどこなのか、まるで判らない。
 ドアマンが正面の両開きの扉をゆっくりと開いているのを、霞のかかった目で見ていた。
 多くの人々が行きかう気配がある。日本語だけではない。さまざまな言語が、遠く近くに聞こえた。
 耳の奥では血が流れる音が響く。
 ホテルのロビーにいるらしい。
 硬い石の床を踏み込むと足が滑った。
 不意に地面の感覚がなくなり身体が浮く。

 ……抱き上げられたんだ。
 そう感じたとき、思いがけないほど近くで人の声が聞こえた。
 長々とした口上らしきものを、ホテルの責任者らしい男が並べるのをイリアは途中で遮った。
「案内はいらん」
 イリアは日本語で短く言った。その声だけが、血のざわめく音の中で鮮明に聞き取れるのが不思議だった。
 今の杏珠には、他人の声が意味を持つ言葉ではなくなっている。

 顔を上げるのさえ億劫で杏珠は、イリアの胸に寄り添った。
 薄いシャツごしに彼の体温が感じられる。
 もっと深く触れたくて、イリアの襟に手をかけた。白いローマンカラーを抜き取り、首に腕をまわす。
「まだロビーだ。エレベーターまで我慢できるな」
 そう言われて杏珠は、どれほど自分が飢えているのか今さら気づいた。
 消えてなくなりたいほど、恥ずかしかった。



 まったく余裕のない杏珠に比べて、イリアは悠然としている。
 いくら体格差があるとしても、人間一人を抱き上げて部屋まで連れて行くのはかなりの腕力があるからだろう。
 ベルボーイが近づいてくるのを見て、イリアは制した。
 わけ知りふうに頷いてベルボーイは、部屋への直通エレベーターのボタンを押す。ドアが開くと、内側からカードキーを差込んだ。
 客室キーが無いとエレベーターが操作できない仕組みになっているらしい。
 イリアが内壁に鏡を張り巡らしたエレベーターに乗り込むと、ベルボーイは外へ出て深々と頭を下げる。
 ドアが閉まるのを待たずにイリアは、杏珠の唇を吸った。
「あふっ……」
 杏珠は、深くくちづけされて、吐息のような声をもらす。
 呼吸もままならない杏珠にイリアは、ついばむように優しく唇を噛んだ。
 甘く唇を噛まれて、舌先でなぞられる。
 それでもまだ足りない。
 埋まらない空洞が自分の中にある。

 ゆっくりとイリアは杏珠の身体を下ろし、床の上に立たせた。
 大きく揺れてしまう身体を支えながら、僧服といっしょに血のついたジャケットを脱がされた。スカートも床に落とされる。
 ボタンのなくなったブラウスと、破けたパンティストッキング。
 鏡に映る姿は、無残なものだった。
 それが悲しいと思うより先に、ブラジャーをずりあげられる。
 脱がされないまま上げた下着からこぼれた乳房が、まるでポルノビデオのようにぷるんと揺れた。
 その先端が固くそそり勃っている。
 鏡ごしに見えるいやらしくも、みっともない惨めな姿。



「あ……っ」
 痛いほどに勃ち上がった乳首を、イリアの指先がつまんで転がす。それだけで身体中に電気が走るような気がした。
 小刻みな痙攣が始まる。
 自分自身よりもイリアは、この身体のことを知っている。
「くぅ……んっ……!」
 耳朶を噛まれた。
 痛みより、じらされるような疼き。
 彼の肩を掴む手に力がはいる。とても辛い。身体の奥が燃えるように熱かった。
 首筋をたどり、イリアの唇が胸に届く。
 硬く尖った先端を軽く歯でしごかれて、杏珠の身体が跳ね上がった。執拗に舐めしゃぶられながら身を捩じらせる。
 片方のふくらみは、節の高い指先に包まれ形を変えた。
 まだ触れられてもいない場所が、溢れてくる感覚に杏珠は唇を噛む。
 一刻も早く触って欲しくて、自分から足を開く。
 イリアは、すぐに察してくれた。
 破れたストッキングから、ショーツの脇に彼の指先が侵入する。
 待ち焦がれていたその手の冷たさ。
 杏珠は押し寄せる快楽を貪るように、身体を震わせながらイリアにしがみつく。
 包皮をめくり、そこを指で円を描くように刺激される。
「はぁあ……あん!」
 待ちかねて、しとどに濡れたそこにゆっくりと指が沈んだ。
 下着はすでに用をなさない。

「後ろを向いて、そこに手をつけ」
 落ち着き払ったイリアの声に、杏珠は打たれたように身をこわばらせた。
 見上げるといつもと変わりのないイリアがいる。
 怜悧な光を宿した隻眼があり、これほどに高ぶらされている自分自身との違いを見せ付けられたようで泣きたくなった。
 いくら媚薬を盛られたとはいえ、浅ましい姿をこの人はどう見ただろうか……。
 一瞬、そんな考えがよぎるが、杏珠の身体はイリアの言うままに後ろ向きになっている。
 頭と身体が別々に動いているようだ。
「上半身を倒して、もっと腰を上げろ。できるだろう」
「……そ、そんな……」
 わずかに残った羞恥心が拒絶をする。
 だが、それは聞き入れられず腰をつかまれて高く持ち上げられた。桃の皮をむくように下着を下ろされる。
 ねだるように尻を突き出した姿。それは後ろから見れば、すべてがさらけ出されているに違いない。
「い、いや!」
「今さら駄々をこねるな」
 後ろから尻たぶを押し分けるようにして、内奥が広げられる。
「やぁっ。やだ……!」

 指とは違う柔らかな感触。それが舌だと気づいた時、杏珠は本気で泣き出していた。
 壁にすがるようにして両手をついたまま嗚咽する。
 抵抗は最初だけだった。
 しだいに力が抜け、がくがくと足が震えて立つことさえできなくなっている。
 肉芽を舌先で捏ね上げられるように、潰されると、絶え入るような吐息が杏珠の口から洩れた。
 溢れる蜜を塗り込められる。
「だ、だめ……もぉ……やだ……あっ……あぁっ!」





 奇麗なイリア。今、ここにいる人は、とても奇麗なのに。
 彼の前にひどく醜いケダモノがいるから、その奇麗な人がよく見えない。
 指先と舌で刺激されて、ケダモノは息を乱し、身をくねらせる。
 熱く蕩けそうになった部分に指が沈む。
「痛いか?」
「ふぁ……あ……っ!」
「力を抜け」
 恐ろしいほどの圧迫感。
 さらに深く指が突き立てたれる。鏡の向こうで、ひときわ高い声でケダモノが鳴く。
 白い手袋をした大きな手に触れられただけで、身体の芯から疼いて、内側からしずくが滴り落ちる。
 黒い髪がたてがみのように乱れて、赤く火照った身体は、まるで毛を毟られて赤剥けになった哀れなケダモノだ。

 これは、誰?
 これは……あたし?





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