「わが子よ……」
 深く低い声。耳の底まで沁みこんでくるよう。
 ガラスで切った傷と蹴られた腹部の痛み、血の味で粘つく気持ち悪さも忘れそうになる。
 煮え返りそうな怒り。悔しさも恐怖も、すべての感情が霧散するかのようだ。
 もはや、そんなことどうでもよかった。
 今は、目の前にいる彼のことしか考えられない。考えたくない。
 イリアさえいれば……。

 杏珠は、ずっとその名前を呼び続けていた男にしがみついた。
 もう何年も離れていたような気がする。
 緊張の糸がきれたように、杏珠は子供のように泣きじゃくっていた。
 涙と鼻水に塗れた顔をイリアの僧服に押しつけ、しゃくりあげて泣く。
 心地よく包み込まれている安心感で、よけいに涙は止まらない。
 イリアの広い胸の中で、杏珠はうっとりと眼を閉じた。




「貴様……よくもこの子の前に姿を現せたものだ。一度は捨てておきながら」
 鋭くイリアが言う。その言葉は、イドリースに向けられたものだ。
 抱きしめられた手が緩むのを感じて杏珠は、イリアにすがりついた。
 もう二度と放れたくない。
 不安な杏珠の気持ちが伝わるのだろうか。ふいにイリアは微笑んで見せた。
 いつもの意地の悪い笑い方ではない。
 眼を細めて、唇がほのかに笑みを刻む。
 ほとんど泣いてしまいそうになるほど切ない儚い微笑だった。
 こんなにもそばにいるのに、今にも消えてしまうのではないかと杏珠は、夢中でイリアにしがみつく。そうしないと、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がした。
 イリアは、杏珠の頬から顎をつかんで持ち上げ、そのまま顔を傾けるようにしてくちづけする。
 一瞬、身を引きそうになったが、イリアのなすがままにゆだねた。
 ざらりとした舌が、唇を割って入り込む。
 口の中いっぱいに溢れた血を舐めとるように、細やかに舌を這わせていく。口蓋や頬の裏の柔らかい部分。
 そんな場合でもないのに、杏珠はうっとりとイリアからのくちづけを受け入れていた。
 媚薬の効果か、恋する人からのくちづけの蠱惑ゆえか、全身の力が抜けていく。
 ざわざわと身体の奥のほうから、遠のいていたはずの劣情が滾り、高ぶりが極まる。



「ようきたな。地の底から」
 背後の声にようやく杏珠は我に返る。
 イリアのひんやりとした唇が離れてしまうのを感じて、杏珠は、また泣きだしそうになった。
「俺は、二度と貴様の顔なんぞ見たくはなかったんだが、獄吏がうるさいからな」
 二人の声はよく似ているが、イリアのほうがいっそう低い。
「つれなき弟よ。何ゆえそなたは、この“なりそこない”に執着するのか」
「この子を“なりそこない”というならば、今の俺こそが“なりそこない”であろうよ」
「それは、違う!」
 初めて、イドリースが声を荒げた。
 イリアの一言で、ふたりの立場が瞬時に入れ替わった。
 冷静だったイドリースと、イリアの反応が逆転している。
「そうだな。“今”は違うだろう。この子の身を確かめたのならば、気づいたはずだ」
 確かめる……? その言葉に杏珠は、身体をこわばらせた。
 あたりには、血と女の臭いが漂っている。
 何があったのかは、一目瞭然であった。
 決して望みなどしなかった。そう言ったところで、ただの言い訳だとしか思ってもらえないのではないか。
 愛欲に溺れ、矜持も何もかもを捨てたと、そう言われたら……。



「この世の理をすべて覆すことになってもか。境界を越えて因果の律を狂わせる」
 ぼやけた頭に、聞きなれない言葉が響く。
 イドリースの声は、震えている。まるで強い怒りを抑えこんでいるかのように。
 欲望の炎は、杏珠の中に燻り、いっそうの熱を放っていた。
 彼の腕に抱かれ、くちづけされ、切なさに身を捩る。
 その匂いが、冷たい肌の感触が……杏珠には苦しかった。
 掻き立てられた情炎の熱さに焦がされ、息も止まりそうだ。

「今さら何が変わるというのか。俺は貴様の望むごとく創造し、すべてを貴様にくれてやった。この上、何が足りんのだ」
「無欲な弟よ。……なぜ、人にもそうやってすべてを与えた」
「モノを考える力を与えてはいかんのか。貴様が欲しかったのは、ただの人形なのか」
「神の定めたトーラーに従えぬ者を創りだしたのもそなただ」
「そうかもしれんな……だが、俺はこの子が愛しい」
 イリアは、杏珠の頬を撫でる。
 冷たい指先が触れるだけで、ぶるっと身体が震えた。
「この身のすべてと引き換えにしても……かまわん」
 そう言いながらイリアは、顔を近づける。くちづけを期待して杏珠は目を瞑った。その冷たい唇は眼の縁にたまった涙を吸い取る。
 吸われてもなお、後から後から涙は溢れた。嬉しさに。
 イリアは、それを舐め取っている。

「なぜ、それほどまでに執着する。しょせんは、われの失敗作だ!」
「この子が存在するということだけで、よい」
 イリアの大きな手は、頬から首筋を伝い乳房に触れた。かき合わせたブラウスと下着を押し開くようにして握りこむ。
 それだけの刺激で杏珠は、身も世もないような声をあげていた。

「最初のアダムが気に入らぬなら、いくらでもイシュイシャーがいる。それらに渡してしまえ」
「渡してどうしろと」
 静かにイリアが聞き返す。
 彼の手が放されたとき、この胸の中に空洞ができたような気がした。
 二つのふくらみには、鬱血の痕と噛み傷が生なましく残っている。
 下着を戻し、ほとんどボタンのなくなったブラウスをかき合わせるイリアの指を見ながら杏珠は、肩を震わせ喘ぐような呼吸を繰り返した。
 怖かった。イリアに嫌われてしまうのが。
 他の男の手でいいようにされた自分など、いらない……と言われたら、どうしよう。
 一人では立っていることもできない。
 イリアがいなければ……。
 この身体を、
 皮膚を肉を掻き毟りたいほどの焦燥感に心は悲鳴をあげる。



 イドリースは、深くシートに座り足を組みかえた。
 話題の中心にありながら、おそらく打ちひしがれた惨めな女など、もはや彼にとっては塵芥にも等しいのかもしれない。
「わが許へ参れ。醜い肉の器など捨ててしまえ。そなたが戻れば、罪は許そう。すべての生き物は還ることができよう」
楽園エデンへか……それは雛に再び卵の殻に戻れというのと同じだ」
「お互いに殺し合い、憎しみあうこの世がよいと申すか」
「善しも悪しきも、誰がそう決めた。貴様の価値観などもはや、人には無用のものだ」
 杏珠を抱きしめる手に力をこもる。イリアは、静かに言う。
「すでに、人は言葉ロゴスを使って、あらゆる災いを招くが、あまたの幸福も創り得るのだ」
 低い声がいっそう低く深みを増す。
 恐ろしさと抱きしめられる嬉しさに、杏珠は懸命にイリアの背に手を伸ばす。どんなに手を伸ばしても、彼の広い背には手が回りきらない。
 かすかにナルドが香る僧服をしっかりとつかみながら、少しの隙間もないほどにぴったりと寄り添う。
「何を怯えている?」
 ふいに低いイリアの声が、驚くほど甘くなった。
 それが自分に対してのものだと気づいて、杏珠は慌てて顔を上げる。
「先ほどまでの威勢が嘘のようだな。お前……」
 こちらを見下ろすその赤い隻眼が細められる。
 笑いを含んだ眼。
 初めて逢ったときには、悪魔のようだと思ったその眼が、今は優しく微笑んでいる。
 暗さと、妖しいほどの甘やかさの入り混じった不敵なその眼差しが、恐ろしいほどの穏やかさで、杏珠の心を癒した。



「では、そなたの名づけ子がこの世で醜く老いさらばえてゆくさまを、地の底で眺めるがよいわ」
 イドリースは、いらだったように声を荒げる。それを聞きながらイリアは、舌打ちをした。
「あいかわらず、貴様は判っておらんな。人は今この瞬間に、己の住まう場所こそが“楽園”なのだ」
「この歪んだ世界で人が満足しているとでも」
「“満足”するというのは、不足するものがないという状態だ。求めれば求めるほど、足りないものは増える一方だ。己が“満ち足りている” ということを人は知っている」
「知らぬ者も多いぞ。そなたが与えたものを使って、憎しみ妬むのだ」
 二人の会話の内容は、まるで杏珠には判らないことばかりだった。
 それでも、今のイリアの言葉だけは理解できる。

 イリアの傍にいられるなら……どこでもかまわない。
 この世の果てまで、いっしょにいるから……それが、どんな恐ろしいところでもかまわない。
 貴方がいる場所こそ、そこはあたしにとっての楽園エデンだ。
 何も怖くはない。
 それが例え、地獄であろうと……。



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