【一部、暴力的な描写があります】

「いやっ、は……はなし……て!」
「今さら、何を言うか。これほど濡らしておいて、ソファが使い物にならぬな」
 笑いを含んだイドリースの声に杏珠は、怒りと羞恥で身が焦げ付きそうな気がした。
 手を伸ばして、割れたガラスの破片を探す。
 ガラスは粉々に砕け、武器になりそうもない。
 杏珠は、思い切ってそのまま握り締めた。ガラスは薄い皮膚を破り、焼けるような痛みが手のひらを貫く。
 その痛みが、杏珠に理性を取り戻させてくれる。
 疼くような官能の熱は冷め、悩ましい幻想は力を失う。
 さらに力を込めて、ガラスを握りつぶす。
 抉られる傷の痛みに杏珠は、呻いた。
 靄のかかったような頭は、少しずつ明晰になる。呂律の回らない舌が言葉をつむぐ。
「……あ、あらしは、あた、……は……思い通りになんか」
「泣いて許しを乞うなら、まだ可愛げもあるものを」
「あんたなんかに、かわいがって、もら、わな……くて!!」
「面白い。どこまで逆らえるか見ものよな」
 はね避けようとするが、のしかかってくる男の身体は重く、びくともしない。
「は、はなし……て!」
 声が上ずった。その反応をイドリースはむしろ楽しんでいるようだった。
 言葉とは裏腹に、身体はさんざん弄られてドロドロに蕩けさせられている。どうにもならない。
 視線を上げると、白い咽喉がすぐ近くにある。
 考えるより先に身体が動いた。
 男の咽喉もとに歯を立てて噛み付く。
 完全な優位を確信していたことでイドリースには、油断があったのだろうか。慌てる様子もない。黙って杏珠のされるままになっていた。
 避けもしないイドリースの行動の意味など考えられない。考える余裕などなかった。
 骨をも噛み砕けと力を込める。
 ブッツと皮の切れるいやな音がした。やがて血の味が広がる。
 口の中いっぱいに溢れた血と自分の涎が零れ、納まりきらず口の端から垂れた。
 咽喉まで流れこむ血に、むせ返りそうになりながらも放さない。
 ここで放したら今度こそただではすまない。殺されるよりも深い恐怖が、血の臭いを忘れさせた。

神のほかに彼に逆らえるものなし

 突然、下腹部に衝撃が走り、身体が弛緩する。
「かはっ!」
 口の中のものを吐き出すと涙で霞んだ視界に、咽喉を押さえるイドリースがいた。
 ひどい耳鳴りと、鈍い痛み。
 何が起こったのかは、すぐには判らなかった。
 下腹を蹴られて、その勢いで口を放してしまったらしい。
 頚動脈くらい食いちぎってやりたかったのに、人間の歯ではそこまでのことはできないようだ。
 彼へのダメージは思ったより、たいしたことはなさそうだ。
 むしろ、杏珠のほうが精神的にも肉体的にも打撃は大きい。
 唾液と血液が交じり合ったものが口の中で溢れている。
 杏珠の服も、シートも血とこぼれたワインで、真っ赤に染まっていた。



「……汝の、その眸は、まるで燃えているようだな」
 イドリースは眼を細めた。
 わずかに距離を離して、シートの上で杏珠とイドリースは対峙していた。
 足元にはワインボトルが転がっている。
 砕けたグラスは床に散らばっていた。杏珠自身もまだ、割れたガラスの破片を握っている。
 蹴られた下腹より、手の傷のほうが痛む。
 どくどくと脈がうつような痛みがあった。
 媚薬の効果がどれほどのものかは判らないが、まだ頭は、ぼんやりとしている。




「その眼。……ただの土塊アダマのくせに」
 低い声……。
 ただ、その声音だけは先ほどまでの底冷えのしそうなほどの恐ろしさを感じなかった。
 むしろ、気味が悪いほど優しい。
 それがただの錯覚なのだと判っている。
 油断してはならない。
 それがこの男の手かもしれないのだ。

「汝は、その眼であれを惑わしたのか」
「…………何を……」
 何を言うのかと怒鳴りつけてやりたかったが、口の中が粘ついてそれ以上言うことができない。
 ワインクーラのそばにあるナプキンをとりあげて、口に溜まった唾液まじりの血を吐き出す。
 口を拭いてから、乱れた衣服を直した。
 ブラウスのボタンは、はじけ飛んでいる。むき出しにされた乳房は、男の指の痕が残り、大量の血に染まっていた。あわてて前身ごろをかき合わせながら、めくれたスカートを直す。
 ストッキングとショーツは足首あたりでたわんでいる。
 目の前の男から視線を逸らさないように、睨みつけたまましゃがみ込んで、手早くストッキングごとショーツを引き上げる。それだけの行為に恐ろしく緊張した。
 ――落ち着こう。
 必死に自分にそう言い聞かせながら、できることは相手を睨みつけるだけだった。
 手の傷は脈打ち、その存在を誇張して燃えるように熱い。
 杏珠の有様と比べれば、イドリースは多少の出血はあってもスーツの乱れさえなかった。
「判らぬならば、教えてやろう。汝の本質は泥でしかない。薄っぺらい皮膚の下にあるものは、ただの泥だ」
「泥……」
 血腥さと粘った血液のせいで、声がでない。それでも睨みつける眼だけには力を込めた。
 視線で、相手が射殺せるものならそうしてやりたい。
「その泥に惑わされた身の末路を見せてやろう」
 イドリースは、杏珠を見てほんのりと微笑んだ。

「われがサンダルフォンに与えた罰を、その眼で確かめるがよい」
「な、……なにを……」
 言いかけた言葉が出てこない。
 顔面神経痛になったように、片方だけ顔の筋肉がぴくぴくと引きつる。
 何を言っているのだろうか。
 さんだるふぉん。
 イドリースの言葉は確かに日本語のはずなのに、まるで理解できなかった。
 ……罰って、何。
 そんな疑問をはさむ間もなく、鳥の羽ばたきに似た音がした。
 窓を閉めているはずの車内に風が巻き起こる。あたりの物が逆巻く風に煽られ、グラスがぶつかり派手に割れる音が響いた。
 雷が落ちたような爆音と光で眼が眩んだ。
 車が急停車して、杏珠はシートの上に転がる。
 爆撃されたのかと思ったが、杏珠が暴れて汚した以外は、車内はまるで何ごともなかったかのようだ。
 磨き上げられたグラスと数種類の酒のボトルは整然と並んでいる。

「汝の迎えだ」
 激しく後頭部をシートに打ち付けて、頭を抱える杏珠とは対照的に、イドリースは悠然と新しいグラスにワインをついでいる。

 確かに迎えは来ていた。
 一瞬前までいなかったはずの人が、当然のように杏珠の身体を抱きしめている。
 懐かしい香りと、強く抱きしめる腕の感触に杏珠は驚いて顔を上げた。
 黒い僧服に梳き流した長い金の髪が、まるで宗教画にある光輪のように見えた。
 凝った血のような眸。超然とした美貌が近々と見下ろしている。

 これは、夢……?



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