いつの間にか、音楽が静かな甘い曲調に変わっている。
 バイオリンだろうか。
 歌詞はなく、どこか眠くなりそうなそんな曲だ。
 すきっ腹にアルコールが入ってくる。緊張で胃がキリキリと痛む。
「何が目的なんですか」
 唐突に杏珠は、言った。
 イドリースは、うっすらと笑うがそれ以上、何も言わない。
「これって、誘拐ですよね。犯罪ですよ!」
 つい、強気な口調になってしまう。
 以前の杏珠ならこんなことは言えなかった。
 立て続けに起こる異常な事態に感情が昂ぶっているのかもしれない。

「いや。この場合は、誘拐より拉致というべきではないのか。我は、汝を騙して連れ出したわけではない」
「どっちにしても、犯罪ってことには変わりがないでしょ!!」
 わずかに眉をあげるとイドリースは、皮肉げな微笑を浮かべる。
「なるほど……汝らの“トーラー”では、そうなるかな」
 とーら……?
 何を言っているのか、意味が判らなかった。
 馬鹿にされているような気がする。
 もはや杏珠は、相手の男に対する恐怖よりも苛立ちのほうが勝っていた。
 自分で思っている以上に酔いは回っているのかもしれない。
 いや、こんな時こそ落ち着かなければ……考えようによれば、これも一つのチャンスかもしれない。イリアの手がかりがこの男から得られる可能性だってある。
 とにかく今は、冷静にならなくてはならない。
 こんな油断も隙もなさそうな男を相手に渡り合わなくてはならないのだ。



 杏珠は、深く息を吸い込むと、切りこむように言った。
「貴方は、ヴァチカンの司祭と関係あるんですか。あの人とどういう」
「なぜ、そう思った」
 言い終わるより先に遮られた。
 近々と見据えられて杏珠は、呼吸が止まりそうなほど緊張する。
 ヴァチカンのワイン。
 イリアと同じ顔。
 間違いなく彼らは、杏珠の知らないところで繋がっている。

「なぜ、我らが別人だと思った。同じとは思わなかったか」
「思う……わけがない……。貴方と彼とではまったく違います」
 息を詰めながら杏珠は、ゆっくりとそう答えた。汗が全身にふきだしてくる。
 身体が異常に熱い。
 吐き出す息さえも、焼けるような気がする。
「何が違う」
「……何もかも」
 本気で聞いているのだろうか。見れば誰だって判る。
「何が、どう違うというのか」
「何もかも、よ。その喋り方も声も違うし、眼の色も肌の色も」
「我らが……何もかも……違うと?」
 それまでのイドリースの落ち着き払った態度が一変した。
 ほとんど色のない灰色の眸が、眼の中で縮みあがる。頬がこわばり、手にしたグラスが小刻みに震えていた。この男でも何かに動揺することがあるのだ。
「顔は、双子みたいにそっくりだけど、見れば誰だって……」
「もうよい!」
 自分から聞いておきながら、イドリースは遮るように叫んだ。
「よう判った。あれの眼は、凝った血のように暗い色をしているのであろう。まるで地獄の底のような……。どうだ。違うか」
 怒気を込めた低い声音でイドリースはそう言った。
 怒っている?
 それが何に対してなのかは判らない。
 杏珠は、できるだけ離れようと腰を引いて、座ったまま後ろに下がった。

「そして肌の色は浅黒く、声は低い……」
 イドリースは、擦り寄るように杏珠に近づく。
 必要以上に寄ってくるイドリースの行動に杏珠は、不快感を隠さずにしかめっ面のまま後ずさりする。
 いくらリムジンが広いといえども、車の中では逃げ場がない。
 不意に、奇妙な違和感に気づいた。
 身体が重い。
 まるでこの贅沢な革張りのシートに深く沈みこんでいくようだ。
 酒の酔いにしてもおかしい。
 イドリースの手が肩にかかり、そのままシートに押し倒される。
 それを避けようとして手を振り払おうとしたが、身体の力が入らない。
 指先にいたるまで、痺れたように自由にならないのだ。
 これくらいの酒量でどうにかなるはずもないのに……まさか。
 このワインに何か入っていたのか。

 気がつくと、足の付け根が熱くなってきていた。
 むず痒いような、たまらない焦燥感が沸き起こる。
 スカートの上から撫で上げられる男の手の感触が、焼けつくようだ。
 やがて、スカートの裾をめくるようにしてストッキングに包まれた大腿に触れ、男の手はゆっくりと奥へ進む。
「何を怯えるのだ。わが子よ」

 不意に流れている曲が変わった。
 歌……静かな物悲しい曲調。

 Voruber, ach, voruber!   ――あっちへ行って。
 Geh, wilder Knochenmann!   ――恐ろしい黄泉の神よ。

 ずっと以前に迦陵が歌っていた。
 あれは、……なんだったんだろう。
 音大に進学して、まだ間もないころだったと思う。あの子が何かのおりに口ずさんでいた。
 なんていう曲なの。
 そう聞いたら、迦陵はすぐに教えてくれた。

「シューベルトの歌曲リートだよ。“死と乙女”だ」

 Und ruhre mich nicht an.    ――どうか わたしに触らないで。



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