見捨てられた……。いや、売られた。
 会社とは、かくも簡単に社員を切り捨てるものなのか。
 今、自分の身に起こっている出来事が信じられない。もしニュースで見ていたら、きっとあり得ない……と思うだろう。
 まるで勤続四十年の会社をリストラで解雇されたサラリーマンのような気分だ。
 絶望のあまり目の前が真っ暗になる杏珠を抱えたままイドリースは、早足で車まで向かった。
 社長を初めとする社員たちは、美術館の外へ出てイドリースにぺこぺこと頭を下げまくっている。
 もがく杏珠をイドリースは、まるで恋人のように腰を抱き、エントランスの前で駐車しているリムジンに乗り込んだ。
 白手袋の運転手が恭しくドアを閉める。
 社長たちが、もみ手をせんばかりの様子で見送っていた。


 初めて乗ったリムジンは、広々としていて横に長いシートには余裕で十人は座れそうだ。
 運転席と後部座席の間にはパーテンションがあり、完全に隔離されている。
 室内は防音らしい。重厚なクラシック音楽が流れていた。
 こんな時にかかっている曲が、シューベルトの“魔王”だから笑ってしまう。
 中学の音楽の時間に聴いたあのピアノ……デデデデデデデデ ダリラリラリダッタッタ。
 あの独特の前奏がなぜかクラスではうけて、みんなで大笑いしていた。
 なんで脈絡もなく魔王が出てくるんだとか……ツッコミどころ満載で、面白がっていたものだ。
 だが、まさか自分が魔王に連れて行かれた子供の立場になるとは、当時の自分では想像もできなかった。

 目の前にはカクテルキャビネットやテレビモニターまであって、まるで応接間のような造りになっている。
 杏珠は、居心地悪く並んだクッションを避けて、身を縮めるようにして座っていた。
「どうした。ずいぶんとおとなしくなったな。日本語でなれのようなのを“借りてきた猫”とでも言うのか」
 イドリースは車に乗ったとたん、日本語を喋りだした。なんてやつだ。
「借りたというより、売られたって気分です……」
 杏珠は小さく呟いた。眩暈をおこしそうだ。

 ――お父さん、お父さん。魔王がいるよ。

 頭の中で、ドイツ語の曲が日本語変換されて聴こえてくる。
「ならば、よい買い物したものだ」
 笑えない冗談だ。
 イドリースは、ゆったりとした仕草でクリスタルグラスを差し出した。
 赤い液体が揺れている。
 手を出しかねてグラスとイドリースの顔を見比べた。彼は華やかに笑う。
 吸い込まれそうな灰色の双眸を杏珠は、息を呑んで睨みつけた。
 イドリースは、その外見よりも遥かに老成した雰囲気があって、よほど気合いを入れていないとすぐに怯みそうになる。
「どうした。喉が渇いたであろう。それとも……われに飲ませて欲しいか」
「けっ、けっこうです!」
 腕が伸びて肩をつかまれそうになり、杏珠は慌ててワイングラスを受け取る。
 勢いよくひったくったので、中味がこぼれそうになり両手で抱えるようにグラスを支えた。
「飲むがよい。毒など入っておらん」
「…………」
「そんな眼で睨むな。われに、向かってそのような顔をした者など……宇宙開闢以来おらなんだがな……」
“宇宙かいびゃく”って……どんだけスケールの大きなこと言う気だ。
 グラスを抱えたまま杏珠は、睨むのを止めた。
 魔王相手に下手にケンカをふっかけて勝てる見込みはない。
 いや、ファンタジー世界の魔王ならともかく、現実世界の危ない人間かもしれない相手だとしたら……例えば暴力団関係者。
 そう思った瞬間、杏珠は血の気が引いた。



 乾く唇を噛みしめて杏珠は、もう一度、イドリースを見上げた。
「なんのご用で、あたしを連れ出したんですか?」
「こうして汝と飲みたかったから……とでも申せばよいのか」
「飲んだら、帰してくれますか」
「そうだな」
 あっさりとイドリースは答えた。
 それが本当かどうかは判らなかったが、とりあえず言うことを利くしかないのだろう。
「これ……なんですか」
 杏珠は、グラスの中で揺れる透明感のある朱赤を眼の高さに掲げてみた。
 強い香りが漂う。ワインらしいが、素直に飲むのも怖い。
「ヴィノ・デ・ミサ。ヴァチカンのミサで使われている純粋なワインだ。甘みも強い」
 ヴァチカンと聞き、杏珠はグラスを透かし見る。
 イリアは、ヴァチカンの司祭だった。
 彼の眼も赤い色をしていたが、このワインよりも遥かに暗い。
 そういえばカトリックでは、キリストの血をワインに例えるのだと聞いたことがあった。
 血のように濃い赤色は、イリアの眼だ。片方だけの赤い眼。

 遠く離れていてもそれとはっきり判るような芳香のするワインだ。樽香のような癖はない。
 恐る恐る口をつけてみた。
 口に含んだとたん、喉から鼻、頭の先までワインの香りとアルコールが充満していく。
 確かに甘い。深みと厚みのあるコク。
 以前、これと同じものを飲んだことがある。あれはイリアが……。

 自分だけ素っ裸にされて、強引に口移しで飲まされたことを思い出して、思わず顔が赤らむ。
 一人で焦っていると、イドリースがじっとこちらに目をあてているのに気づいた。
 まるで頭の中を見透かされているような気がして、慌ててグラスの中身を飲み干す。

「よい飲みっぷりだな」
 イドリースが奇麗な声で笑った。
 手ずから、杏珠のグラスにワインを注ぐ。ラベルには三重冠と天国の鍵というローマ法王の紋章が使われている。
 車はどこに向かっているのだろう。目的地が判らない。
 この男が何を考えているのかも。



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