だが、その前向きな気分は、一瞬で沈下する。
 思わず立ちあがりかけた。
 まさか……!?

 六十過ぎの社長をまるで下僕のように従えた背の高い銀髪の男が、ガラスドアの向こうに見えたのだ。
 杏珠は息を呑む。
 違う。あれはイリアではない。イドリースだ。
 息子ほどの年頃の相手に普段は横柄な社長が、驚くほどへりくだっている。
 だが、それも仕方がない。
 彼には、その若さに似合わぬ奇妙な威厳があった。
 遠くから見てさえ、そばに寄ることをはばかるようなすごみを感じる。
 真昼の日の光をすべて吸い込んだような見事な白金の髪を普通では、あり得ないほど長く伸ばして背中で垂らしている。
 まるでファンタジー映画か、中世の貴公子だ。
 それでいて、きちっとしたスーツを着て黒縁の眼鏡をかけている。
 普通なら、ちぐはぐで滑稽なはず……それがまったく違和感がない。彼の超越した美貌のせいか。いや、それだけではない。
 単に美しいだけ。あるいは、資産家であるというだけで、あれほど他人を畏怖させるのだろうか。
 いったい何者なのだ。

 あれこれ考えているうちに彼らは、近づいてくる。
 展覧会の出品者だから、会場を見に来るのは当然かもしれない。ただ、よりによって、なぜ今?
 同じ受付の理莉も、営業の鞠尾もいない。どうしよう。
 いや、考えようによっては、誰もいないからこそ受付を離れることはできない。そう言えば大丈夫だ。
 まさか社長が受付に座るはずもない。何か用事を言いつけられることもないだろう。
 杏珠は、そう軽く考えた。



 ガラスの自動ドアが開く前に杏珠は、席から立ち上がりその場で頭を深々と下げた。
 表向きは、マニュアル通りの丁寧な応対のつもりだ。
 心のうちでは、早く帰れと祈っている。
 足音は、しだいに大きくなってくる。そのうち遠ざかるはずだ。
 革靴の底が市松模様のタイルの床を踏む音が響く。
 だが、その足音は杏珠の前で止まる。
 キリッと腹部の痛みを感じた。
 ああ、これが原因で神経性胃炎から胃潰瘍になったら、労災でもおりるかな……無理か。
 虚しい考えにふけるまもなく、社長の裏返った声が頭の上から降ってきた。
「きみっ、今すぐマクトゥームさんをご案内しなさい。さあ、早く!」
 一瞬、その言葉が自分に向けられたものだと信じられなくて杏珠は、ひたすら頭を下げていた。
 あり得ない。
 絶対に、そんなこと言われるはずがない……はず。

「きみっ、聞いているのか。早くしろ!!」
 ヒステリックな声で、怒鳴られて杏珠は、しぶしぶ頭を上げた。
「受付が無人になってしまいます……それに、言葉が判りません。ご案内など、とても無理です」
 せめてもの抵抗を試みるが甘かった。社長は受けつけない。
「わたしが代わってやる。きみは早く行きなさい」
 この社長。受付の女子社員の名前すら覚えていないらしい。小さな同族経営の画廊で、社員もごくわずかなのに。
 卒業してすぐに入社したが……そういえば面接をしたのは、社長の息子である専務だった。
 得も言われぬ優しい微笑を浮かべたイドリースがこちらを見ている。
 イリアと同じ顔をしているのに、印象はまったく違う。
 彼なら、きっとこんなふうには笑わない。
 ちょっと唇の端をつり上げただけの意地悪な笑いかたをするだろう。
 性格の悪さをそのまま現すような……。

 イドリースは、杏珠に向かって何事か話しかけた。
「コマン タレ ヴ?」
 なんだろう。変な響き。鞠尾がいないと意味が判らなかった。
 フランス語の挨拶といえばボンジュールくらいしか知らない。
 そもそも彼は、日本語を話せたはずだ。わざと言っているのか。性格の悪さはイリアと変わらない。似ているのは、顔だけでないのか。
 だが、杏珠に聞き取れたのはそこまでだった。さらにイドリースは何か言っているようだ。早口で理解できない。
 判らないまま、社長に早く早くと急かされて、受付の席から追い立てられる。

「だから、フランス語が判らないんです。どうやって案内をすればいいんですか」
「運転手が通訳をしてくれるはずだ。食事に付き合って欲しいとおっしゃっておられるんだ。もたもたするんじゃない」
「食事って……そんなことは男性の営業さんが」
「きみもうちの社員だろう!」
 名前も覚えていないくせに……思わず、そう言い返しそうになったが、杏珠は黙った。
 もし、ここを解雇されたら、独り暮らしをするための資金が危なくなる。
 今はなんとしても、クビになるわけにはいかないのだ。
 少しの間、自分が弟たちから離れてさえいれば、きっと元通りの家族に戻れる。
 だから今は、何が何でもこの仕事を失うわけにはいかない。

 イドリースがさりげなく杏珠の手を取った。
 エスコートするつもりらしい。不信感は募るばかりだ。
 いかにも紳士ぶってはいるが、人前でなければ何をするか判らない。
 じりっと後ろに下がろうとするのを、社長が背中を押す。セクハラの上にパワハラだ。
「やっぱり、いやです。行きたくありません」
 ほとんど泣きたくなりそうな気持ちだったが、泣いている場合でもない。
「お腹が……胃が痛いんです。食事なんて無理です。鞠尾さんがもうすぐ戻ってきますから」
「子供じゃないんだから、さっさと行きなさい」
 必死の拒絶も、それが聞き入れられることはなかった。ここに鞠尾がいたら、助けてくれたかもしれないのに。
 そんなやり取りをする間に、イドリースが杏珠の腕を掴みあげた。
 いきなり二の腕をわしづかみにされて恐怖感しかない。振りほどこうと手をひくが、イドリースの力はまるで緩むことがない。
「な、何するんですか」
 優男のような外見とは裏腹にイドリースは怪力だった。
 さらに彼の腕は、抱き上げるように杏珠の腰に巻きつく。
「何するのよ。いやだって、ちょっと!!」
 引きずられて美術館の外に連れ出されそうになる。杏珠は、死にもの狂いで抵抗した。
「止めて、放して! 誰かっ!!」
 男の腕を引きはがそうとしても、びくともしない。爪をたてて引っ掻いても、男の手は万力ように杏珠の腰を締め上げる。
 足が地につかないまま暴れた。水中でバタ足をしているようだ。
 ガラス張りのドアの向こうには、人の姿もあるのに、誰も助けてくれようともしない。
 いつも挨拶をかかさない警備員さんさえ、透明なガラスの向こうで困惑したような顔でこちらを見ているだけなのだ。
 なんで誰も助けてくれないの?
 これって、ほとんど誘拐って状況じゃないの?

 杏珠が本気で怯え始めたころ、数人の足音がロビーに鳴り響いた。
 ようやく助けが来たらしい。
 顔を上げると、専務やほかの営業の社員たちが集まってきた。
 よかった。いくらなんでも嫌がる女を無理やり拉致したら犯罪だ。
「放してください」
 杏珠は怒鳴った。腰に巻きついた腕はそのままだ。目撃者は多い。
 この現場を見れば無理やりだということがすぐに判るはずだ。
 今度こそ警察に突き出してやる。

 強気でいられたのもそこまでだった。上司たちは杏珠の眼の前で、深々と頭を下げたのだ。



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