「おう、仕事中に何しくさっとんじゃ、ワレ!」
 いきなりドスの効いた関西弁が人気のない館内に響き渡る。杏珠たちは、身体が跳ね上がった。
 平日の昼どきという時間帯で、来館者は他にいない。
 その場で凍りつく杏珠よりも、理莉のほうがはるかに落ち着いている。
「もぉ、びっくりしちゃったですよ」
 理莉の砕けた話し方を聞いて、ようやく杏珠も気がついた。
 まるで岩みたいな禿頭の大男。
 眉は濃く眼光も鋭い。口の周りを囲うように髭をたくわえており悪役プロレスラーのようだ。
「ま、鞠尾さん……」
 力の抜けた声でようやく杏珠が言った。
「すごい迫力ですもの。パパのお仕事関係の人がいらしたのかと思っちゃいました」
 杏珠に抱きついたまま、理莉が無邪気に言う。
 パパのお仕事関係って?
 ……理莉の実家の仕事がどういう関係なのか。聞くのが怖くなってきた。

「ふふっ、昔ね。そんなお仕事してたのは」
 にこやかに鞠尾は答えているが、昔、何をしていたというのか。
 ここの会社、ただの画廊だと思っていたのに……危ない組織の資金源になっていたらどうしよう。

「でも、ダメよ。こんな目立つところでイチャイチャしてちゃ」
「いちゃいちゃって!!」
 あせる杏珠を横目に、理莉はごめんなさいと可愛く小首を傾げてみせる。
 それを見て鞠尾は、よしよしと頭を撫でていた。
 ごつい親爺と美少女の組み合わせは、どこか不思議な雰囲気をかもし出している。
「さ、杏珠ちゃん。ごめんなさいは?」
 目の前の理莉から、今度は杏珠に向き直って鞠尾が言う。
「え、ちょっと待って……あたしは」
「ごめんなさいは?」
 鞠尾が少々、声のトーンを落としただけで杏珠は、震え上がってしまった。
 横にも縦にも巨大な相手が凄んでいるのであれば、なおのことである。
 もっとも本人は凄んでいるつもりなど毛頭なく、優しく諭しているぐらいの気持ちなのだろう。
「ご、ごめんなさ……い」
 割り切れぬものを感じながらも、素直に謝った。
 すると鞠尾はやはり、理莉にしていたのと同じようにヤツデの葉のような手で杏珠の頭を撫でた。
「うん。いい子ね。どうせなら、人のいない場所で思い存分、いろんなことなさい!」
 何、そのいろんなことって……。



 鞠尾は、人差し指を頬に沿わせて、困ったような流し目をこちらにくれる。
 妙に色っぽいしぐさだ。これがいかつい親爺でさえなければ。
「でも、杏珠ちゃんもようやく目覚めて……」
「ないよ!」
 理莉が言いかけるのを、慌てて杏珠は訂正する。
「だって」
 理莉は、ちょっと唇を噛んで掬い上げるようにして、こちらを見上げた。
 ガラス玉をはめ込んだような大きな眼で見つめられると、決まりが悪くなってしまう。
 鞠尾に助けを求めるように視線を送ると、苦笑いしながら間に入ってくれた。
「あらあら。杏珠ちゃん」
「鞠尾さんまで、どういう意味ですか」
「でも最近の杏珠ちゃんってば、妙になんていうのかしら……そうね。色気が出てきたっていうか」
 言いよどむ鞠尾の言葉を理莉が続ける。
「そう、そうなんです。フェロモンとでもいうのかしら。とっても感じるんですの」
「うまいこと言うわね。理莉ちゃん」
 鞠尾は小指を立てるようにして口許を隠しながら、くすくすと笑った。

「確かにそれはあるわ。アタシはそっちのケはないんだけど、思わず食べちゃいたくなりそうな……なんなのかしらね」
「た、食べる?」
 巨大なゴリラかイエティに頭から喰われそうな気がして、杏珠は身をすくめる。
 そもそも“フェロモン”の意味がよく判らない。
「素敵な恋人でもできたのかしら。ほら、女の子って恋をすると奇麗になるっていうしね」
 鞠尾の言葉に今度は、理莉の顔から血の気がすうっと引いていく。
「恋人って……杏珠ちゃん。確かちょっと前に別れたって……」
「いや、別れたって……本当だって」
 自分でも情けないくらい卑屈に言い訳している。
 元カレのことなら、別れたというより捨てられたというべきだろうか。いや、元カレだけではない。
 杏珠は、こめかみが微妙にひくつくのを感じた。
「本当ですわよね。まさか、この前のは、本当にキスマークじゃありませんわよね」
「ち、ち、ちちちちちち、違う」
「どもり過ぎですわ。嘘では……ないでしょうね。杏珠ちゃん?」
 浮気を問い詰められているような気分で杏珠は、首を振った。

「まあ、まあ、そんなに苛めないであげてよ。でも、杏珠ちゃんってなんかこう苛めたくなるっていうか、イジリたくなるっていうか」
 仲裁してくれる鞠尾の言うことも、なんだかありがたくない。
「いやですよ。イジられキャラなんて」
「そうじゃないのよ。花だって、ただ奇麗なだけなら虫も寄りつかないわ。甘い蜜の匂いや虫にしか見えない色を発しているからなのよ」
「どういう意味?」
 杏珠は、眉をひそめた。理莉が、ふふっと声を出さずに笑う。
「つまり、今の杏珠ちゃんからは、蜜の匂いがするのよ」
「別に香水なんてつけてないけど」
 そう言って杏珠は、自分の服の袖に鼻を近づけてくんくんと嗅いでみた。
 いつもと同じ柔軟剤の匂いがするだけだ。
「そうじゃなくてね。人を惹きつけるような……だから、素敵な恋人ができたのかなって思っただけ。つい最近まで、色気なんてカケラもなかった子だしね」

 色気がなかったというのは、自覚している。
 だが、急に化粧や服の趣味が変わったわけではない。
 まさか、あの神父が……。
 いや、違う。彼は、あたしを捨てて行った。ただの行きずりだ。

「でも、変な人にも気をつけなさいね。もし何かあったらアタシに言ってちょうだい」
 すでに何かありました。……とも言えず、ありがとうございますとだけ答えた。
 もしかしたら顔に出ていたのかもしれない。
 鞠尾は、いかつい顔にふっと優しそうな微笑を浮かべて、また頭をよしよしと撫でた。
 すると理莉も同じようにして、自分より背の高い杏珠の頭を撫でにくる。
 そんなふたりが、妙におかしくて笑ってしまった。
 いろいろ問題は、山積していて、何一つとして解決しない。それどころか、問題はこじれる一方だ。
 でも、気遣ってくれる人が身近にいるのは、心が安らぐ。こうして、笑うことのできる状況にあるのは、幸せなのかもしれない。

「そうそうアタシ、あんたたちにお昼にしなさいって言いにきたのよ。お昼ご飯に行ってらっしゃい。受付は代わってあげるから」
「ありがとうございます。鞠尾さん。もうリリ、お腹ぺこぺこだったの」
「ちょうどよかったわ。美術館の食堂の日替わりランチは、えっとフライ定食だったわよ」
「行きましょ。杏珠ちゃん」
 立ち上がりかける理莉に、杏珠はちょっと戸惑っていた。
 今は食欲がない。胃の具合も悪かったし、フライ定食はちょっときつい。
 ストレス性の胃炎かも。
「あたし……今、ちょっと胃が……」
「あら、病院はちゃんと行った?」
 鞠尾がそう言うと、理莉が側に寄ってきて腹の辺りをさする。妙にくすぐったくてヘラッと笑ってしまう。
「胃腸薬飲んだから、それより理莉は、鞠尾さんと一緒に食べに行っておいでよ。あたし留守番しているから」
 理莉の手を避けながら、杏珠は受付の簡易テーブルの下に置いてある彼女のバックを渡してやった。
 控え室は無人なので、個人の貴重品は自分たちの側に置いておくのだ。
「でも……リリは、杏珠ちゃんが心配です」
 心配そうにこちらを見る理莉だったが、鞠尾が提案した。
「それじゃ、後で何か軽いものでも買ってきてあげる。お腹がすいたら奥でちょっと摘んだらいいわ」
「ありがとう」
 杏珠は、笑って二人を見送った。
 小柄なビスクドールのような美少女と、巨大な禿頭のプロレスラーという不思議なふたりだ。とてつもなく目立つのが、わけもなくおかしかった。
 夕べは、落ち込んでもう笑うことなんてできないと思うくらいショックだったのに。
 まだ一日もたっていないのに、こうして笑っている自分が信じられなかった。
 どんな苦境に陥っても、自分は心底、落ち込むことはないのかもしれない。
 そうだ。ゆっくり考えてみれば、迦陵の気持ちも一時的なものだ。
 しばらく杏珠が距離をおいていれば、きっと他に恋人もできる。そばにいるからいけないのかもしれない。
 あの隻眼の神父のことも、あれが夢だったのか、現実なのか。それは、ひとりになったときに改めて考えよう。
 今は、ひとりで暮らす家を見つけなければいけない。
 そういえば、兄とルームシェアしている友人が兄の結婚で家を出ることになったと言っていた。彼女に声をかけて一緒に住んでもいいかも。
 そう考えると、急に目の前が開けたような気分になった。
 なにごともポジティブシンキングだ。



inserted by FC2 system