美術館に人の流れが途絶えると杏珠は、深いため息をもらした。
 隣に座っている理莉が心配そうにこちらを伺っているのに気づいて、あわてて笑ってみせる。
 受付業務をしていながら、人前でこんな疲れきった顔を見せるなど社会人として失格だ。
 背をしゃんと伸ばして杏珠は、硬いパイプ椅子に座りなおす。
 長時間座っていると腰が痛くなってくるが、市立美術館の中で行われる展覧会の期間は入場客も多い。客以外にも出品者も来る。
 来客のたびに立ち上がってお辞儀をするし、ときどきは理莉と交代で控室にいる関係者にお茶出しをすることもあった。
 自社ビルにある画廊の受付をしているときのほうが、はるかに暇だ。
 杏珠が芳名帳に使う筆の具合を調べていると、隣の席から理莉が心配そうに覗き込んできた。

「大丈夫ですの?」
「大丈夫って……やだ。お酒臭い?」
 とっさに自分の息を確かめようとして、掌を口にあてて呼気を確かめてみる。
 昨夜はかなり飲んだ。入浴もせずにベッドに潜り込んで、明け方近くにシャワーを浴びた。
 胸のあたりに重い岩をのせられたような息苦しさが今も残る。
 迦陵のことを思い出すと、ため息がまたでてしまう。

「そうじゃなくて……悩みごとでもあるんですか?」
「悩み?」
「言ってくだされば、相談にのりますわよ?」
「……うん」
 理莉は真剣に言ってくれるのだろうが、こんなことを誰に話せるというのか。
「わたしではお役に立てないかもしれませんが、それでもお話するだけでも気持ちが軽くなると思うんですのよ」
 優しい声で諭すように理莉が言う。
 つられるように顔を上げると、小首をかしげて理莉が微笑む。高雅なビスクドールのような整った面差しがそこにある。

「話すだけでも……?」
「そう……大丈夫です。誰にも言いませんわ」
 真剣な表情で理莉は聞いてくれる。
 いつもはおちゃらけてばかりいるくせに、こんなときは意外と頼りになるのかもしれない。
 でも、実の弟が重度のシスコンで、姉の恋人を脅迫して別れさせたあげくに、妹まで利用したなんて話。とてもではないが言えない。
 おまけに玄関先で思いっきりキスをされたり、脱がされて胸揉まれたり……なんてどこのエロゲーだ。
 自分のことでなければ、確実にそう考えるだろう。
 まさか、あの衣蕗と迦陵が?
 とてもではないが信じられない。けれど信じられないことばかりが立て続けに起きている。
 何が現実で幻なのかさえ、あいまいで何度も自分の頬を抓った。
 痛覚は確かにあって、それでも痛みのある夢かもしれないと、まだわずかな希望に取りすがろうとしている。
 それでも、首や胸に残る鬱血の痕や、乳首への噛み傷が夢ではないのだと告げていた。
 朝になっても胃のむかつきや痛みはとれず、胃薬を飲んだ。
 二日酔いなどとは違う。ストレス性の胃炎だろうか。
 現実と向き合うのが怖くて、今朝もふたりと顔を合わさないようにと、早朝に出社した。
 こうなれば、一刻も早く家を出たほうがいいのかもしれない。



「ひとり暮らしをしようか……って、思ってね。いい物件がないか探しているの」
 なぜ? と訊かれたら、何と答えようか。
 妹は、高校卒業後すぐ家を出た。それに比べて杏珠は、一人暮らしの経験がない。
 迷ったものの、あまりに理莉が心配そうな顔をしているので打ち明けてみた。
「ひとり暮らし?」
「うん。できるだけセキュリティーのしっかりしている所がいいんだけど……。でも、お給料安いからな」
「ここのお給料、そんなに安いんですの?」
 真剣な眼差しで理莉は、訊いてくる。
 思い出した。彼女は社長の遠縁だったのだ。
「な、内緒にしておいてよ。あたしがこんなこと言ったなんて」
「ええ、もちろん。判っています。杏珠ちゃんを困らせるようなことは申しませんわ」
 つんと胸をはって理莉は答える。下着で押さえつけていない胸が、ベストの下でたゆんと揺れた。
 今は勤務中なのでいつもの学校の制服ではなく、会社の事務服を着ている。
 どこにでもあるベージュのベストと白いブラウス。それに膝丈のタイトスカート。
 それさえも、理莉の人形のような美しい顔と、完璧なプロポーションをひきたてている。高校生とは思えない。

「でも、そういうことならリリのお父様に聞いてみますわ」
「理莉のお父さんって、不動産関係の人?」
「いろいろ手広くさせていただいておりますの」
 くふふっと、独特の笑い方をして、理莉は小首を傾げてみせた。
「じゃ、何かいいとこあったら教えてね」
「杏珠ちゃんのためですもの。きっと素敵なお家を探しますから期待していてくださいね」
「あんまりアテにしない程度に期待してる」
「もぉ、杏珠ちゃん!」
 ぱふっと勢いよく理莉は抱きついてきた。
 小さいころの衣蕗もこうやってよく抱きついてきたものだ。
 ああ、ダメだ。思い出したら泣けてきそう。
 自分の恋敵が妹だって知ったときもショックだったけど、今はそれ以上に衝撃は大きい。
 元カレは、結局のところ他人だ。でも、衣蕗は違う。
 もし、迦陵の言うことが本当だったらどうしよう。
 まさか、そんなことあり得ない……
 それくらいなら妹が元彼のことを好きでいてくれたほうがよっぽどよかった。
 まさか、好きでもない男と……嘘だ。
 そんなことをする意味がない。あり得ないことだ。
 おそらくは、杏珠の反応を見て愉しんでいるだけに過ぎない。
 思わず杏珠は、理莉の身体をぎゅっと抱きしめていた。

「杏珠ちゃん?」
「は?」
 不思議そうに見上げてくる理莉に、間の抜けた返事をして、あわてて杏珠は手を放した。
「いつもならリリが抱きついたら逃げるのに」
 そう言って理莉は、いっそう強くしがみついてくる。
 いつものごとく、遊んでいるだけなのは判っているが、杏珠は困惑した。
「ようやく杏珠ちゃんもこちらの世界に目覚めましたのね」
 吐息がかかりそうなほど、理莉は顔を近づけてくる。甘いリップの匂いがした。
「どこの世界よ。あたしそっち系の趣味はないから、レズとかホモとか違うし」
「レズなんて、百合と言ってください」
 理莉は、ぐりぐりと胸を押しつけてくる。
 地味なベストの下の膨らみは、圧倒的だ。幼い顔立ちとのアンバラスさが際立つ。
「百合っていつの時代よ。古すぎるでしょ!!」
「明治とか大正かしら?」
「気がついてないかもしれないけど理莉は、もう、江戸時代まで行っちゃってるよ」


 女ふたりが、目立つ受付で抱き合っているのはまずい。
 まずい、と思いつつも乱暴にすることもできず、杏珠は椅子から転げ落ちそうになっていた。
 ガラス扉が自動で開く音がする。




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