不意に玄関ドアの鍵を開ける音がして、杏珠は振り返った。
 薄暗い中で四角く切り取った明かりが零れる。
 とっさに杏珠は、母かと思った。
 助けを求めたい気持ちと、後ろめたさがせめぎあう。だが、扉の向こうにいたのは妹だった。

「あ、……杏珠ちゃん?」
 淡く染めた長い髪をゆるく編んで、素肌に男ものらしい大きめのシャツを着ている。
 化粧のない顔が普段よりずっと彼女を幼く見せている。
 マスカラもアイラインもないその眼差しが、こころもとなげに感じる。
 とっさにお腹のあたりを見たが、膨らみはなかった。
 考えてみれば、まともに顔を合わせて話をすることなど、妊娠の騒ぎから今までなかったような気がする。
 妊娠した。そう聞いたのは、このふたりの口からであって両親は何も言わなかった。
 まさか、本当に迦陵の言う通り、狂言だったのだろうか。
 父も母も気を使って何ごともない素振りをしているのだろう。単純にそう思っていた。
 揉めるのがいやで、ずっと避けていた。
 問い詰めたい気持ちもあったが、今は自分自身の中の混乱のほうが大きい。

「お、おかえり……」
 杏珠は、思わずそう言った。
 長い間、家を離れていた妹に向かって、何を言えばいいのか判らなくなっている。
 会えば言いたいことは、たくさんあったはずだ。
 一生口など利くものかと思ったことさえあった。だが、じきにそんな考えもなくなった。
 妹は、何があろうと妹なのだ。  迦陵が弟としてかけがえのない存在なのと同じく、衣蕗も大切だった。
 だが、その両方を失ってしまうのだろうか。
 不安だけが大きく肥大して、杏珠を押し包んでいく。

 衣蕗も同じ言葉を杏珠に返した。
 妹は、まだ迦陵が話したことを知らないのか。それとも本当は妊娠していて迦陵の言ったことが嘘なのか。
 ぎこちない沈黙の後に杏珠は、迦陵の手を振り解き急いで靴を脱いだ。
 玄関をあがったところで、嘔吐感に襲われる。
 口を押さえてトイレへ駆け出した。
 すぐに後ろから、弟と妹がついてくる。
 心配して何か言っているらしいが、今の杏珠には耳には入らなかった。
 食べた物すべてを吐き出しても、まだ嘔吐は止まない。
 胃液を吐き、便器を抱え込むようにして、トイレに座り込んだまま杏珠は動けない。
 苦しさに涙が滲んだ。
 酔っ払って、幻を見たのならいいのに……。
 トイレのドアを激しくノックされている。

 パタパタと廊下を走る音がして、母の高い声が聞こえる。
「もう、あんたがついていてお姉ちゃんのことちゃんと、見ていてくれなかったの。こんなに酔うなんて……」
 楽天的なくせに、変に心配症な母の声。

 ……お母さん。助けて。お母さん!

 心の中で、訴えても聞こえるはずがない。
 母にすがりたい。でも、それはできなかった。



「酔ったからじゃないよ。ほら、子供がよく精神的に追い詰められると吐いたり、お腹が痛くなったりするだろう。あれだよ」
 落ち着き払った様子で、追い詰めた張本人が答えている。
「精神的に、って……仕事のことよね……やっぱり」
「辞めたくないみたいだけど」
「でも……」
 後の母と弟の会話は聞こえない。
 口をゆすぎたい。それには、ここを出ないと……。でも、ドアの向こうには迦陵がいる。
 そう思っただけで、冷水を背中に浴びたようだった。身体がどうしようもないほど震えてしまう。

「どうした。杏珠に何かあったのか!」
 父の声だ。
 今日に限って父は、起きていたらしい。
 タイミングがいいのか。悪いのか。杏珠はよろよろと立ち上がり、トイレのドアを開けた。
 洗面所で口をすすいで、気分が悪いからもう寝るとだけ言って、階段を上がった。
 リビングは、いつもと同じだった。
 テレビの中から笑い声が聞こえる。深夜のバラエティ番組だろう。
 いつもと同じ家。いつもと同じ両親。
 弟と妹だけが違う。
 外見は同じはずなのに、中身だけが別の何者かに変わってしまったような……。
 SF映画であったような状況。
 現実とは違う。
 なぜだろう。
 いつもあたしだけが、現実からずれたところにいるような気がする。
 これは、本当に現実の世界なのだろうか。



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