杏珠が酒に酔うのは久しぶりのことだった。
 アルコールに強いほうではないので、外ではそれほど飲まないようにしている。
 ただ今日は弟がいるという安心感と、現実から逃避したい気持ちが大きい。
 カラオケと居酒屋、バーを回ってようやく帰路についたのは終電ギリギリだった。
 調子に乗って飲みすぎたかもしれない。
 少し足元がふらついている。
 弟に寄りかかりながら、よろよろと夜道を歩く。
 華奢だが迦陵は、やはり男だ。杏珠の身体を抱きかかえるようにして一緒に歩調をそろえてくれる。
 知らず知らずのうちに杏珠は、弟に甘えるようにして泣きべそをかいていた。
 自分が値打ちのない人間で、だからこそまともな恋愛ひとつできないのだと自己否定をすると、すぐにそれを打ち消してくれる。
 面倒がらずに、話を聞いてもらえるのが嬉しい。
 大人になるとこうしてふたりで飲みに行くことなど、ほとんどなかったが迦陵は、昔から杏珠の話をおとなしく聞いてくれたのだ。
 わざとらしい慰めや、押しつけがましいことなど決して言わない。さりげなく労わってくれる。
 弟の優しさに埋もれながら、気持ちよく泣いて歌って飲んで杏珠は、落ち着きを取り戻し始めていた。
 広い男の胸に寄りかかれるのは、それが例え弟のものであっても、甘えられるようなそんなふわふわとした気分が杏珠の中で膨れ上がる。
 前方から人がくると、すかさず迦陵は杏珠を庇うように肩を抱き脇へ避けた。
「ありがとう。迦陵」
「しっかり歩いてくれよ。うちまであと少しだから」
 家まであと、ほんの数十メートルだ。
「あたし、あんたがいてくれてよかった」
「何?」
「すごくいい弟だよ。ううん。男としても最高だよ。本当に迦陵の彼女になる子がうらやましいよ。お姉ちゃんは」
 冗談めかしてそう言ったのは、ちょっと照れくさかったからかもしれない。
 さんざん泣き言を聞いてくれた弟への感謝の気持ちもあった。
 心の底からそう思ったのだ。
 家の明かりが見える。
 もしかしたら、母が起きて待ってくれているのかもしれない。
 夜が遅いのが苦手な父は、とうに寝ているだろう。
 現金なもので家が見えてくると、一分でも早く帰りたくなってしまう。
 さんざん居酒屋で食べたり飲んだりしたくせに、やっぱり家で食べればよかったと思った。それほど母の手料理は美味しい。
 迦陵の手から離れていそいそと、玄関へと向かった。
 バックから鍵を取り出そうとして、いきなり後ろから手首をつかまれる。
 迦陵がドアを開けようとしてくれたのかと、杏珠はのんきなことを考えていた。
 鍵をもったままの手が壁に押しつけられる。
 強い力で押えられて痛みを感じるより先に迦陵の顔が近づく。そのまま覆いかぶさるようにして迦陵は、杏珠の唇に自分の唇を重ねた。
 何が起こったのか理解できない。迦陵は、容赦なく二度目のくちづけをする。
 最初のキスが触れるか、触れまいかというあやふやな親愛のキスとでもいい訳できるものだとしたら、今度は違っていた。



 生あたたかい舌が唇を割り、くいしばる歯をなぞる。
 杏珠は、総毛だった。
 必死でもがくが、手首をつかまれ腰を強く壁に押しつけられて動くこともできない。
 目を見開いて、今の信じられない現実をただ見つめる。
 つい一瞬前までこれは、たったひとりの弟だった。
 これは誰?
 見下ろしているのは、見知らぬ男の顔だ。
 安心して身をまかせていた広い胸は、もう肉親の優しいそれとは違っていた。
 もがいても暴れても逃げられない。
 嘘だ。嘘、嘘、嘘、嘘。
 こんなことがあり得るはずがない。
 昼間に見たあの神父の幻と同じものだ。
 自分の神経がおかしくなっている。
 足が、がくがくと震え立っていられない。
 崩れるようにその場に倒れこみそうになる杏珠の身体を抱きかかえられる。
 頭に血の流れる音が耳触りなほど響く。
 嘘だ……。

「嘘じゃないよ」
 よく通る声が耳もとで囁かれる。
 奇麗な声。
 優しかった手。
 どうして?
 何がいけなかったの。あたしの何が……。

「そうだよ。杏珠ちゃんのせいだ」
 そう言いながら迦陵は、杏珠の耳に吐息を吹き込む。ぞくっと震えが走り杏珠は、唇を噛んでうつむいた。
「俺が何も知らないと思ってたのか」
 声のトーンが低くなった。
 何のことを言っているのだろう。何を……。
「気づかないと思ってた? 残念だったね。俺はちゃんと見る目を持っている」
 杏珠の服の襟をつかみ迦陵は、そのまま大きく広げた。
 声をあげそうになるのを必死で押しとどめる。
 家の明かりが、このドアの向こうにある。暖かで安全なその場所に逃げ込みたかった。
 けれど、ここで騒いだら、これまで杏珠を守り包んでくれていた大切なすべてをぶち壊すことになる。
 なぜ、どうして?
 頭の中は、それだけがぐるぐると回っている。
 世界中でいちばん心安らぐ家が、家族がそうではなかった。
 純粋な恐怖が杏珠の中で膨れ上がり、呑み込まれていきそうになる。
 迦陵の指がゆっくりと首筋をなぞり、ある部分で止まった。

「ほら、ここ。鏡がないから判らないだろけど赤くなってる。いったいどんな虫にやられたんだ」
 迦陵は、眼を細めてくすっと笑う。
「前の奴を追っ払ったかと思えば、もう次の虫か」
「む、虫……?」
「前の虫は、なかなか手ごわかったよ。なまじっかな女の子をあてがっても靡かなかった」
「その前のやつは、意外と簡単だったな。写真を撮ってちょっと脅かしてやったらすぐに、杏珠ちゃんから手を引いたからね」
 手を……引く?
 初めて付き合った彼は、他に好きな子ができたから別れようと言っていた。
 ちょっとおどおどとした感じの男で、あとで思い返せばどうしてあんな男と付き合っていたのか自分でも判らない。
「だが、今度のは堅物だったからね。とにかく仕方ないから我らが妹に登場願ったわけだよ」
「な、何言ってるの……」
 我らが妹?
 衣蕗いぶき、あの子がどうしたの。
「何って、衣蕗にちょっと誘惑してもらったわけなんだけど」
「誘惑って……何言ってるの。衣蕗は妊娠……」
「するわきゃないだろう。だってあいつはピル飲んでたんだし」
「ぴ、ぴる……?」
「ピルも知らないの。低用量経口避妊薬だよ」
 迦陵はうっすらと笑った。今まで見たこともないような酷薄そうな表情だった。
 杏珠は、まだ理解できずにいる。

「嘘よ……そんな冗談……」
「衣蕗は喜んでたよ。杏珠ちゃんはあいつより自分のほうを選んでくれたって言ってね」
「……選ぶ」
「恋人の代えはあっても、妹はただひとりだって言ったろう。あれには衣蕗のやつ感激してたな。馬鹿だよな。あいつ」
「嘘……嘘よ」
 うわ言のようにつぶやきながら杏珠は、何も考えられなくなっていた。
 考えることを放棄したかった。
 また夢を見ている。
 いくらなんでも今度の夢はひどすぎる。
 あの迦陵がこんなことを言うはずがない。
 杏珠の脳裏に小さかったころの迦陵の姿が浮かぶ。
 両手を伸ばして走ってくる可愛らしい男の子と、今、目の前にいる得体の知れぬ大きな男が重なり合ったとたん視界が涙で滲んだ。

「嘘……って、ことにしてやってもいいけど、その前にこれの言い訳くらいは聞かせてよ」
 迦陵は、杏珠の首筋にあるらしい赤い痕を指先できつくこすりあげる。
「何のこと……」
「気づかなかったのか。ずいぶんと迂闊だな。こんなところにキスマークつけたままにしているなんて、まさか元カレじゃないよな」
「違っ」
 杏珠はあわてて自分の首を隠そうとしたが、迦陵に腕をつかまれたまま動けずにいる。
 そんなものがつけられるような覚えはなかった。
 あれは夢だ。
 現実のはずがない。
 足元から、冷たい何かが這ってくるように杏珠の身体を侵食する。
 立っていられない。
 身体は冷たくなっていくのに、頭の中は熱く滾る。何も考えることができない。

「違う。違う……!」
「そんなはずないだろう。だってイタリア旅行でも同じところにつけて帰ってきたじゃないか。まさか、同じ相手なのか」
 同じ相手?
 まさか、あれは現実だったの。
 本当にあの人は……いたの。



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