馬鹿だな……。杏珠は、自分のことを改めてそう思った。
 落ち込んでいるときというのは、どうしてこうも感情の振り子が激しく揺れるのだろうか。
 気がつくと、まるで壊れた蛇口のように涙が止まらなくなっていた。
“滂沱”という言葉はこういう場合に使うのかもしれないと、泣きながらもどこか冷めた気持ちが自分の中にあるのも不思議だった。

 なぜそんな状況にあるのかといえば、やはり弟の甘い声のせいだろう。
 とびっきりよく通る柔らかな声で迦陵は、ラブソングを歌っている。
 初めのうちは芸能人の声マネをしながら面白おかしく歌っていたのが、ちょっとしたはずみでバラードに変わった。
 別にそれが思い出の曲だったというわけではない。ただ、何か堰を切ったように涙があふれた。
 迦陵は、あわてて歌うのを止めたが、すでに感情は暴走してしまっている。

 ついこの間まで、妹に恋人を奪われた自分を哀れんでいた。
 まるで運命が自分にだけ辛く当たっているという不幸な気分に気持ちよく浸りきりっている。
 そんな自分のことを、やはり馬鹿だな……とあらためて思ってしまう。
 世間には両想いや失恋など、恋の歌はいくらでもあった。
 感傷的な歌詞に自分を重ね合わせれば、簡単に悲劇のヒロインになりきることもできる。
 実の妹が姉の恋人を寝取るというのは、なかなかドラマチックな話ではないだろうか。
 だが、すべては現実であってドラマでも映画でもない。
 取るに足らぬ日常のことのように今は感じられる。
 毎日はごく当たり前に過ぎていき、後で振り返ってみれば、あんなこともあったと思い出すに違いないだろう。
 そんな自分に杏珠は、笑ってしまいそうになる。
 考えればいろんなことがありすぎた。

 迦陵が杏珠を気遣うのも、おそらくは妹のことに違いない。
 学校の近くで独り暮らしをしていた妹が、家に戻ってきている。
 杏珠が病院に運ばれたと連絡を受けたなら、母が迎えにくるはずなのに、弟が来たということは、たぶん、そうのだろう。
 お腹が目立つ前に式を挙げる予定なのか。それとも事情が事情だから入籍だけでおさめるつもりなのか。
 当然のことながら、そんな話はまったく杏珠の耳には入らない。
 家族は気をつかっているのだろう。
 それでも腫れ物を扱うような露骨な態度をしないでいてくれるのが嬉しい。
 どんなときにも気楽な両親と、その正反対に細やかな気配りをする弟の存在に杏珠は救われている。
 温かな湯に浸るように、家族の愛情にどっぷりと首までつかって。
 こんなときでさえ、幸せなのだと思う。幸せと不幸はより合わせた縄のようだ。
 自分の昔の恋人が義理の弟になるかもしれないということは、今は考えないでおこう。
 考えてもどうしようもないことだ。妊娠した妹を未婚の母にさせるわけにはいかない。
 ただ今の杏珠の中には、あの神父のことだけがある。
 我ながら単純なものだ。
 存在すら知らなかった相手のことを思い煩うことになるとは。
 彼を知る以前のことが、すべてたわいのないことに感じられる。



 あれは誰なのだろう。
 もう二度とは会えないのか。
 そう思っただけで、身体の芯が凍えそうになる。
 凍りついたこの身は、ちょっとした衝撃で粉々に砕けてしまうだろう。
 どんなに時間が過ぎようとも忘れられない。忘れたくはない。あれが例え夢であったとしても……。
 あんなにひどいことをされたのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
 自分自身の中の子供であった時代は過ぎてしまった。
 とうに親離れして成人したものだと思っていたのに、一人で生きているつもりでいた。
 だけど、そうではない。親に、あるいは友達や兄弟に、ずっと依存して生きてきたのだ。
 いつも誰かがそばにいてくれた。わがままを許してもらえた。
 その事実に気づいたのは、以前に比べたら少し成長したということなのか。



inserted by FC2 system